肥後支配の歴史 第2回「国司対郡司・エリート官僚と地元ボスの静かなる250年戦争(701年〜950年頃)」新着!!
701年から950年頃にかけて、肥後国で繰り広げられた国司(中央官僚)と郡司(在地豪族)の権力闘争。道君首名の開発行政や、阿蘇氏の抵抗、そして律令制の崩壊と武士の台頭まで、250年の政治ドラマを解説します。
肥後支配の歴史 第1回「律令国家『肥後』の設計図・十四郡の成立と中央が夢見た辺境の理想郷(701年〜8世紀前半)」新着!!
701年、大宝律令により確定した肥後国の14郡。全国屈指の「大国」として設計された肥後の行政区画と、国造から郡司へと転身した旧支配者たちの行方、そして二本木に置かれた国府の役割を解説します。
肥後支配の歴史 序章「肥後国誕生への道・古代王国の解体と律令国家の胎動(528年〜701年)」新着!!
新シリーズ開幕!西暦528年の磐井の乱から701年の「肥後国」成立までの激動の時代を解説。白村江の戦いが生んだ鞠智城の謎や、火の国がなぜ肥前・肥後に分けられたのか?古代王国の終焉と、新たな支配の幕開けに迫ります。
火の国 支配の変遷 ⑩「肥後国の誕生と、古代王国の終焉(701年〜8世紀初頭)」新着!!
西暦701年の大宝律令完成とともに消えた古代王国「火の国」。物語(神話)、システム(律令)、文明(仏教)という三つの網によって、「肥後国」へと塗りつぶされていった最終的な支配のプロセスを解説します。火の国 支配の変遷 完結編。
火の国 支配の変遷 ⑨「葦北と天草・南の防壁と海の道(528年〜600年頃)」新着!!
西暦528年以降、火の国の解体を進めるヤマトが授けた「直(あたえ)」の称号。盟主・火君の指揮下から離れ、自ら「防壁」や「海の道」の管理者としてヤマトの直属部下となる道を選んだ葦北と天草のリーダーたちの、生々しい政治的選択を解説します。火の国 支配の変遷⑨。
火の国 支配の変遷 ⑧「県北のリーダーたち・境界線上の生存戦略(528年〜600年頃)」新着!!
前回の記事、 火の国 支配の変遷 ⑦「阿蘇国造・火山と名馬を握る聖域の主」 では、火山という聖域と軍馬の生産を背景に、独自の地位を築いた阿蘇国造の戦略についてお話ししました。 西暦528年の磐井の乱終結から飛鳥時代にかけ […]
火の国 支配の変遷 ⑦「阿蘇国造・火山と名馬を握る聖域の主(528年〜600年頃)」新着!!
西暦528年以降、ヤマトの分割統治下で独自の地位を築いた「阿蘇国造」。火山を鎮める宗教的権威と、最強の軍事資源である「馬」の生産を武器に、ヤマトさえも手出しできなかった聖域の主たちの生存戦略を解説します。火の国 支配の変遷⑦。
火の国 支配の変遷 ⑥「群雄割拠する国造たち・本家『火国造』の苦悩と意地(528年〜600年頃)」新着!!
前回の記事、 火の国 支配の変遷 ⑤「分割統治と、王から官僚への変貌」 では、磐井の乱ののち、強大だった火の国が五つの地域に分割され、ヤマトの管理下に置かれた全体像をお話ししました。 西暦528年の乱終結から、飛鳥時代の […]
火の国 支配の変遷 ⑤「分割統治と、王から官僚への変貌」528年(磐井の乱終結)から7世紀末新着!!
磐井の乱後、火の国を待っていたのは徹底的な分割統治でした。連合の盟主だった王が、ヤマトの管理下にある国造へと変貌していく過程とは?全国の3分の1が集中する装飾古墳や、出土した馬具から読み解く、静かなる抵抗と生存戦略を解説します。火の国 支配の変遷⑤。
火の国 支配の変遷 ④「決断と代償・支配の受け入れ」527年(磐井の乱)から、530年代頃新着!!
磐井の乱で火の国が下した決断とは?北の友を裏切り、ヤマトについた彼らが支払った代償「屯倉(みやけ)」。それは独立国家としての「火の国」の終焉と、ヤマトの直接支配を受け入れる始まりでした。火の国 支配の変遷④。
火の国 支配の変遷 ③「二つの太陽と、南からの風」6世紀前半(古墳時代後期)
前回の記事では、ヤマト王権との「黄金の提携」によって、火の国がかつてない繁栄を極めた時代についてお話ししました。 しかし、歴史に「永遠」はありません。 6世紀に入ると、その絶妙なバランスは音を立てて崩れ去ります。 東から […]
火の国 支配の変遷 ②黄金の提携期(5世紀)
独立国だった火の国は、なぜヤマトと手を組んだのか?それは敗北ではなく、最強の「生存戦略」でした。江田船山古墳の鉄刀が語る契約と、筑紫を牽制する「西の守護神」としての繁栄。火の国 支配の変遷②黄金の提携期。
火の国 支配の変遷 ①その曙(3世紀から4世紀)
熊本の歴史は、阿蘇の神話だけではありません。かつてここには、近畿のヤマトさえ手出しできない強大な「鉄の王国」がありました。卑弥呼のライバル「狗奴国」の最有力候補とされる方保田東原遺跡と、知られざる独立時代の曙を描きます。
宮部鼎蔵のことどのくらい知ってる?
熊本出身の幕末の志士、宮部鼎蔵の生涯を深掘り!吉田松陰との交流から肥後勤王党での活動、そして悲劇の池田屋事件まで。彼の情熱と目指した日本の未来とは?
横井小楠って結局何をした人なの?
幕末熊本の思想家・横井小楠の生涯と功績を深掘り!なぜ故郷で出世できなかった?福井藩での活躍、国是三論・七条が明治政府へ与えた影響まで、気になる疑問を解明します。
鹿子木文書(かなこぎもんじょ)
玉名市は、鹿子木文書を市指定重要有形文化財(古文書)として指定したことを発表しました。指定は令和7年3月26日付。 鹿子木文書とは 鹿子木氏は、飽田郡鹿子木荘の地頭職を与えられ鹿子木氏を名乗りました。南北朝時代には菊池氏 […]
貴田孫兵衛(毛谷村六助)
貴田孫兵衛は、安土桃山時代の武将で、加藤清正の家臣として知られています。900余石を知行し、「加藤十六将」の一人とされました。 本名は貴田統治(きだ むねはる)とも呼ばれ、歌舞伎の毛谷村六助(けやむら ろくすけ)の題材で […]
鋳方徳蔵(いがたとくぞう)
鋳方徳蔵は、1864年(元治元年)〜1933年(昭和8年)を生きた人物で、陸軍大学校を卒業後、明治19年に陸軍砲兵少尉となり、佐世保要塞司令官や野戦砲兵第二旅団長などを歴任し、中将として大本営陸軍幕僚参謀にまで出世した熊 […]
加藤正方 - 加藤家家臣
加藤正方 は熊本藩加藤家の家老として内牧城代、八代城代などを歴任する家老職。加藤清正公が亡くなり、若年の藩主・忠広を支え、時には藩政の派遣争いがお家騒動になってしまったりする。大地震で崩壊した八代のマチを立て直しながら、忠広の改易で職を失う。その後は京都で隠棲しながら、大阪の相場で距離を得たりしている。
初代・細川忠利(2代小倉藩主・初代熊本藩主)
肥後熊本藩の初代藩主。加藤家改易後に豊前小倉藩から転封となる。島原の乱では23,000名もの軍勢を率いて鎮圧軍に参加する。細川忠興とガラシャの三男で、父とは逆に、バランスの取れた穏やかな人格だったようだ。
道君首名(みちのおびとな)
道君首名 について 生年:天智天皇2年(663年) 没年:養老2年4月10日(718年5月18日) 「続日本紀」という文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱う勅選史書に登場する […]
菊池(藤原)経頼:菊池家3代目
菊池(藤原)経頼 について 菊池経隆の子。従四位下、兵藤四郎。詳細はよくわかっていないが、筑前方面に勢力を拡大し粥田荘を鳥羽院に寄進している。 伯父・菊池政隆の娘を嫁にしているのは、血統のねじれの解消が目的だという人も少 […]
菊池(藤原)経隆:菊池家2代目
菊池(藤原)経隆 について 藤原則隆の子。別名は兵藤警護太郎。肥後守。彼の事績は余り残っていないが、母親は葉室(藤原)光親(正二位・権中納言)の娘。というすこぶる高いお公家様とつながっている。菊池氏が本来は地方豪族(推測 […]
肥後細川家の歴代当主たち
肥後細川家の歴代当主たちを紹介する。細川家は鎌倉時代に起源を持ち、室町幕府の管領家を務めるが、この細川家は傍流。だが名門として今もその血脈を繋いでいる。興味ない?







































