貴田孫兵衛(毛谷村六助)
貴田孫兵衛は、安土桃山時代の武将で、加藤清正の家臣として知られています。900余石を知行し、「加藤十六将」の一人とされました。
本名は貴田統治(きだ むねはる)とも呼ばれ、歌舞伎の毛谷村六助(けやむら ろくすけ)の題材でもある。
戦場での孫兵衛
文禄の役では、三番隊下川又左衛門の下で鉄炮衆40名を率いて従軍。『清正記』『加藤家傳』によると、加藤軍のオランカイ(満州)攻めの際に森本一久と一番乗り争いをし、討死したとされている。
家系と後継
孫兵衛の死後、清正は身内を探し出し名を引き継がせました。弟とされる貴田孫兵衛玄蕃(後に貴田玄蕃正勝)が後を継ぎ、熊本城の築城などに携わる。加藤家の改易後、玄蕃は尼崎藩青山氏の筆頭家老となり、江戸幕府から日光東照宮の石垣造営を命じられたといいます。
※正勝については、実は清正公の妾の子という話を見かけたこともある
あともう一人の弟、貴田角右衛門は中津藩細川氏に仕官し、後に肥後へ移りました。角右衛門の子孫は九州一円に、玄蕃の子孫は関西一円と東北に広がりました[2]。
伝説と文化的影響
貴田孫兵衛は毛谷村六助の名で多くの伝説を持ち、歌舞伎や浄瑠璃の題材となったらしい。江戸時代の軍記本には、女の仇討ちを助太刀したという物語がある。
天明年間には人形浄瑠璃『彦山権現誓助剣』として上演され、後に歌舞伎の演目にもなりました。韓国の民間伝承では、晋州城攻防戦で水死した人物と同一視されています[1][2]。
大分県中津市山国町毛谷村と福岡県添田町には木田孫兵衛(毛谷村六助)の墓があり、逆修塔(死後の往生をねがって生前に自らが建立するもの)と考えられています。佐賀県唐津市名護屋には、六助社というお堂があり、足の神様として祀られています。
Citations:
[1] https://matsu-reki.jp/column/no16/
[2] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E7%94%B0%E5%AD%AB%E5%85%B5%E8%A1%9B
[3] https://rekimoku.xsrv.jp/102-bunkazai-0000654.html
[4] https://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/a0382db71a9f5e40b94e6df7b05e0db6
[5] https://www.town.soeda.fukuoka.jp/docs/2016040700020/files/09-10.pdf