肥後細川家 歴代当主 たち

肥後細川家 の系譜をたどる。SNSなどで熊本城の歴代城主を紹介する際に必要だったので簡単にまとめた。

細川家は清和源氏の足利氏の支流で、鎌倉時代に三河国額田郡細川郷に土着して「細川」と名乗るようになったのが始まり。

この細川家が南北朝時代は足利尊氏に従い発展し、室町幕府の管領を務める有力守護大名となる。この細川家(宗家と京兆家)の傍流とされるのが肥後細川家なのだが、近年の研究では、肥後細川家の祖は宇多源氏佐々木大原氏の流れとも云われている要するにまだよくわかってないということ。

細川藤孝(丹後宮津城主)

生没年:1534年6月3日〜1610年10月6日

三淵晴員の次男として京都東山に生を受ける。細川さんじゃないの?と思うがそもそも三淵家と細川家では養子が出たり入ったりしていた様子。いろいろな説があるが、淡路守護細川氏を継いだとする説が有力らしい。

とにかく幕臣として、足利将軍のそばで戦国時代を奔走していたら戦国武将としても出世したという人。

熊本で暮らしたことはないが、系譜的には彼から始まるので、肥後細川家 の初代として扱われている。とはいえ、数え方は人によるみたい。実際に熊本藩主になったのは孫の忠利公から。

剣術をはじめとする武術の達人であり、和歌・茶道・連歌・蹴鞠などの教養人としても名高い、チートな人。

初代・細川忠興(初代小倉藩主)

生没年:1563年11月28日〜1646年1月18日

細川藤孝の長男。明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)を嫁にもらったこと。本能寺の変をきっかけに隠居した父に代わって細川家の当主になった。関ヶ原で徳川方に味方し、石田三成本隊との戦闘になった。結果、加増され小倉藩の初代藩主となる。

大阪夏の陣を最後に隠居する。息子忠利が肥後熊本藩に加増・転封されたとき、4男の立孝とともに八代城に入る。隠居城である。
忠利・立孝などに先立たれながらも83歳まで生きる。肥後細川家 というククリでは2代目だが熊本藩主未経験、息子の細川忠利が、初代の熊本藩主となる。

武闘派のイメージが強いが、利休の七哲の一人という文化人的な側面も持ち合わせている。

2代・細川忠利(2代小倉藩主・初代熊本藩主)

生没年:1586年12月21日〜1641年4月26日

現代に置き換えると、彼が中学生のときに関ケ原の戦いを迎えることになる。一応人質として徳川秀忠などの側にいた。3男でありながらさまざまな理由で跡継ぎとなった忠利にとっては、この時期の人間関係が肥後細川家の今後にとって大きくプラスとなった。

実際からは加藤家改易後の熊本に入藩することになる。国持大名と同等の扱いを受ける。

島原の乱でも忠利は2万3000もの軍勢を率いて参陣する。

極端なキャラクターだった細川忠興とは対象的なバランスの取れた人柄の忠利は加藤家から熊本をお預かりします。という謙虚なスタンスで善政を布く。55才。父よりも5年先に旅立つ。

3代・細川光尚(2代熊本藩主)

生没年:1619年10月26日〜1650年1月28日

早世の細川2代目藩主。忠利の長男。父の死により家督を継ぎ、「阿部一族」の渦中の人となる。従弟の幸孝に宇土藩を立藩させてこれが元総理の細川護熙につながる系譜となる。藩政の基礎を固めるが31才でなくなる。

7歳の息子ではお家取り潰しも免れない状況だったが、細川家というブランドや光尚などの謙虚な振る舞いなどが奏功し細川家は存続することになる。

4代・細川綱利(3代熊本藩主)

生没年:1643年2月26日〜1714年12月18日

光尚の長男。家督を7歳で嗣ぐ。年少のため藩政は幕府目付と親戚筋の小笠原忠真(豊前国小倉藩主)の監督を受けた。10才のときに綱利(徳川家綱と父の旧名・光利)と名乗る。

吉田司家を肥後に招き、水前寺成趣園を整備し、赤穂浪士を歓待したことなどで知られる。一方で文化活動に力を入れすぎ藩の財政を傾かせたという一面もある。1712年に隠居し、2年後72才で亡くなる。

5代・細川宣紀(4代熊本藩主)

生没年:1676年12月24日〜1732年8月16日

熊本新田藩主・細川利重の次男。3代藩主・綱利の嫡子が早世したため正徳2年(1712)に、30代半ばで家督を譲られる。彼の在位中は天才などが毎年のように発生し、苦労に苦労を重ねたようだ。享保17年(1732)で57年の人生の幕を下ろした。

心労もあったんじゃないかな。

6代・細川宗孝(5代熊本藩主)

生没年:1716年6月16日〜1747年9月19日(正徳6年4月27日〜延享4年8月15日)

4代藩主の宣紀の跡継ぎ。17才で家督を嗣ぐことになるが、引き続き天災などにより藩財政は苦しいものであった。そんな中、旗本の板倉勝該により江戸城内で惨殺される。理由は別の人と間違って斬られたというとんでもないこと。32歳になったばかりの宗孝には後嗣がなく、再び御家断絶の危機を迎える。

このときは仙台藩の伊達宗村がたまたま居合わせて、即死した宗孝が存命ということにして末期養子として弟の紀雄(のちの重賢)に継がせることに成功する。

7代・細川重賢(6代熊本藩主)

生没年:1721年1月23日〜1785年11月27日(享保5年12月26日〜天明5年10月26日)

兄が32才で亡くなったので、急遽末期養子として家督を嗣ぐ。父と兄の世代に天災などで悪化した藩の財政を改善させるために様々な手を打つ。この時代の名君で「紀州の麒麟(紀州藩9代目徳川治貞)、肥後の鳳凰」と讃賞されている。

重賢のおかげで藩の実高は幕末までには100万石となったと云われている。

藩校・時習館や医学校・再春館など教育にも力を入れていた。熊本藩を発展させた重賢は66才で没する。

8代・細川治年(7代熊本藩主)

生没年:1758年5月31〜1787年10月26日(宝暦8年4月25日〜天明7年9月16日)

重賢の長男として誕生。10代将軍・家治より偏諱を賜る。天明5年(1785)に家督を嗣ぐ。父の宝暦の改革を引き継ぎ藩政を執るが翌年の天明6年には天災が起こり藩内で打ちこわしなどが起こり騒然としている中、天明7年には30才で亡くなってしまう。

彼もまた嗣子がおらず、支藩である宇土藩の藩主・細川立札が養子となる。細川ガラシャの血を引く血統は本家筋では絶えてしまう。

9代・細川斉茲(8代熊本藩主)

生没年:1755年6月5日〜1835年12月12日(宝暦5年4月26日〜天保6年10月23日)

5代宇土藩主・細川興文の3男として生まれる。明和9年に宇土藩を嗣ぎ、天明7年に宗家の後を継ぐ。重賢依頼の藩政改革をすすめるが、あまり効果はなかった。30代で熊本藩主となってから20年ほど藩政に携わるが、文化7年3男の斉樹に家督を譲り隠居する。享年は81才。

細川忠興公の妻ガラシャの血統が絶える。ネット上の資料ではこの血統をどういう意味で大事にしているのかわからないのだけど、分かる人いる?

10代・細川斉樹(9代熊本藩主)

生没年:1797年2月9日〜1826年3月20日(寛政9年1月13日〜文政9年2月12年)

「なりたつ」と読むそうだ。文化7年に父の跡を嗣ぎ、藩の財政を再建させるが、文化9年、30才の若さで亡くなる。結局、藩財政の再建は失敗となる。細川家は短命な人が多い。

11代・細川斉護(10代熊本藩主)

生没年:1804年10月19日〜1860年6月6日(文化元年9月16日〜万延元年4月17日)

宇土藩主。細川立之の長子。文政元年に父の跡を嗣ぎ、宇土藩主になるも、本家の細川斉樹が30才の若さで亡くなったので、養子として跡を嗣ぐ。藩財政がままならぬ間に、幕末の訪れを感じる。

熊本藩は天領・天草の相模湾の沿岸警備を命じられ、財政負担は更に増す。横井小楠や長岡是容の改革はと松井佐渡などの保守派が対立し藩は二分されている。享年57。

12代・細川韶邦(11代熊本藩主・熊本藩知事)

生没年:1835年7月23日〜1876年10月23日(天保6年6月28日〜明治9年10月23日)

「よしくに」と読むのだ。斉護の次男。万延元年(1860)に父の死によって家督を相続。兄は早世している。尊皇攘夷には消極的であったが、慶応4年に新政府側に与する決断をする。明治2年に版籍奉還に伴い熊本藩知事となり、明治3年に弟・護久を養子にして家督を譲る。享年42。

13代・細川護久(12代熊本藩主・熊本藩知事・侯爵)

生没年:1839年4月14日〜1893年9月1日(天保10年3月1日〜明治26年4月14日)

熊本藩知事・韶邦の弟にして、養子。藩知事を嗣ぐ。大名としての細川家の歴史は終わり、明治4年の廃藩置県で免官。白川県知事となる。侯爵に叙され貴族院議員に就任する。享年55才。

その後の細川家

14代・細川護成(侯爵)

細川侯爵家の嗣子。貴族院議員。

15代・細川護立(侯爵)

細川護成の末弟。87才没。男爵から侯爵になる。

16代・細川護貞(公爵)

明治45年生まれ。第二次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務める。息子の細川護熙の政界入りには反対し、勘当したらしい。
平成17年93才で亡くなる。

17代・細川護熙(熊本県知事・内閣総理大臣)

護貞の長子で朝日新聞の記者を経て参議院議員、熊本県知事、参議院議員、衆議院議員、内閣総理大臣を歴任。現在は陶芸家。ご存命。

18代・細川護光(陶芸家)

護煕の長男で陶芸家。ご存命である。