肥後・菊池氏について

肥後の菊池氏は熊本の県北・菊池市を中心に平安時代後期~室町時代にかけて450年もの間活躍した一族です。
源氏物語蒙古襲来絵詞太平記などの書物にその軌跡を遺した大豪族で、兵藤・西郷・合志・山鹿・村田・赤星・黒木・甲斐・城・ 広瀬などの諸氏のルーツにもなっています。

菊池氏の歴史

菊池氏の出自

菊池氏は1019年の刀伊の入寇で戦功を挙げた大宰権帥藤原隆家の孫とされる藤原則隆が肥後国に入国したのが1069年と言われており、藤原則隆を菊池氏の祖としてる。最近の研究では初代・則隆は藤原家に伝えた武人であったというのが有力されています。

当時の菊池市一帯は、大宰府天満宮領赤星荘という、太宰府の荘園でした。ここに藤原則隆が荘官(代官?)として赴任して深川(佐保川八幡宮そば)に居を構えます。これが菊之城にあたり、現在も跡地が菊池市の指定文化財として遺っています。

その後3代目藤原経隆は領地を固めつつ筑豊地方へ進出し、鳥羽上皇に寄進することで朝廷とのつながりも強めます。結果として4代目経宗は鳥羽院武者所という現在の皇宮警察に近い職種に就いたそうです。また、5代目の経直も同じく出仕できたそうです。このころには藤原から菊池姓として認識されてるのかなぁ?

源平~鎌倉時代

6代隆直~9代隆泰のころ(12世紀中頃)で、菊池氏にとっては苦しい時代になります。

平清盛が肥後守に就任し平家によって菊池氏も平家の家人として組み込まれ、源頼朝が挙兵すると、6代目の隆直が養和の乱を起こして平家に抵抗したが、降伏したり、治承・承久の乱に参加したり、なんとか源氏の御家人に名を連ねることができたとおもっても、守護に任じられた少弐氏や大友氏・島津氏ほどの恩賞はもらえず冷遇されていたそうです。

蒙古襲来

この状況を挽回したのが10代目の武房で、竹崎季長が主人公の「蒙古襲来絵詞」でも「格好良く・爽やか」と絶賛されている活躍ぶりです。しかし、鎌倉幕府からのご褒美は甲冑一式。菊池氏に限らず、「御恩と奉公」の図式が崩れたので武士の心は幕府から離れていきます。

室町時代(初期~南北朝時代)

菊池氏は後醍醐天皇のそばに仕えた13代武重は、日本各地を転戦します。関東で戦っているときに足利尊氏が九州に逃れ少弐氏などを頼って下関まで来た隙に、武重の弟・武敏が少弐貞経を攻め滅ぼしました。

この勢いを借りて阿蘇惟直秋月種道蒲池武久星野家能などで多々良浜の戦いに臨むも敗退。武重もなんとか帰国して足利方との戦いに明け暮れた。

南朝の懐良親王は鹿児島から阿蘇惟澄の本拠地御船を経由して隈府城に入城したそうです。

その後も菊池氏は観応の擾乱南北朝時代の三すくみの状態のなかで、もがきながらも、時代をつないでゆく。

室町時代後半〜戦国時代

18代兼朝は室町幕府に従順・忠実ではなかったが守護の阿蘇氏が阿蘇郡にしか支配力がないことを知り、室町幕府は兼朝を肥後守護職に任じる。19代持朝は大内氏とともに少弐氏・大友氏と戦い、筑後守護職を与えられる。その後20代為邦のときに、筑後守護職を奪われる。

また肥後も阿蘇氏が阿蘇大宮司という立場を以て阿蘇郡を掌握しており、菊池氏の勢力は小国のみに浸透していた。球磨郡や葦北郡は古来より相良氏のものであったし、八代郡の名和氏は親しく手が出せない。

肥後の守護職でありながら、すべてを掌握できない状況がここにあった。

その後の菊池氏は一族で争うことが目立つようになり、大友氏や阿蘇氏などに所領を奪われ滅亡してゆく。

ということで、菊池一族は戦国時代を乗り切れなかったんだけど、他の地域の名族で戦国を乗り越えられなかった家ってどのくらいあるんだろう?

歴代当主一覧

  1. 藤原則隆(1029年~1101年?)
    初代・もともと「菊池」を名乗っていたという説もある。藤原北家の系譜という記録もあるが、荘園領主だった藤原氏のネームバリューを狙って、藤原姓を名乗ったのか、賜ったのか。
  2. 藤原経隆(1053年~1105年?)
    2代目で初代の3男。寛治年間(1087〜1094)に出羽の秋田諏訪宮と八幡宮を勧請したらしい。八代の出田若宮神社が墓所と伝わるが墓碑などはまだ見つかっていない。兵藤警護太郎とも名乗っていた。
  3. 藤原経頼(1073年~1123年?)
    経隆の子で兵藤四郎とも呼ばれる。筑豊地域に進出し、鞍手・嘉麻・穂波などの広大な領地を所有し、粥田荘として鳥羽上皇に寄進している。嫁さんは父の長兄の娘なので、長子の血統も残そうと思ったのか・・・
  4. 菊池経宗(1096年~1145年?)
    3代目の娘で天仁2年(1109)頃、鳥羽上皇の武者所(上皇の御所を警護する武士の詰所)として在京勤務。従五位下。
    あまり熊本(菊池)にはいなかったかもしれないね。
  5. 菊池経直(1111年~1186年?)
    生年不詳~1186:1122年に父についで鳥羽上皇の武者所として在京勤務。天承元年(1131)に菊鹿町の内田八幡宮を勧請している。
    文治2年(1186)に佐賀県の武雄市の潮見神社・笠懸神事(流鏑馬)の際に落馬してなくなる。そのまま潮見神社に墓所があるらしい。
  6. 菊池隆直(1146年~1188年?)
    生年不詳~1185年:父より1年先に死没している。三代続けて武者所に出仕。以仁王などからの要望もあり、日宋貿易を推進する平家に反発する形で「鎮西反乱」を起こす。平家は各地の反乱の対応で、この隆直への対応ができず、赦免している。しかし、源平合戦では平家側(安徳天皇)に就いたので、壇ノ浦の戦いで、嫡子とともに斬首。この代で並び鷹の羽紋を頂き、類題の日足紋から変更する。
    九州全体の国司のような存在でもあったと言われている。菊池氏の輝かしい歴史の始まりだったのかもしれない。
  7. 菊池隆定(1167年~1122年2月13日)
    兄の戦死により、18歳くらいで家督を嗣ぐ。平家側で源氏に対抗したので、本領は安堵されたものの政権からは冷遇。
    坪の産神社、鹿本の米島八幡宮、高橋八幡宮を勧請。武者所に招聘されたが、源平合戦で大変だったから状況はしていないっぽい。
    • 菊池隆継 :早世
  8. 菊池能隆(1201年~1258年9月8日)
    隆継の早世により、孫が後を継ぐ。叔父の家隆と隆元が京都大番役として上京しているらしい。
    しかし1221年の承久の乱で、後鳥羽上皇方に就くので、領地をすんごく削られる。(菊池氏は強いんだけど、選択ミスが多い気がするw)
  9. 菊池隆泰()
    生没年不詳:父が執権北条氏に楯突いたので冷遇される。
    息子の一人は赤星家を興す。(菊池氏の重臣)
  10. 菊池武房(1225年~1276年3月28日?)
    次男だが後継者となる。長男は東福寺の住職になったみたい。
    弟・赤星有隆と叔父・西郷隆政と一緒に頑張ったのが、文永の役と弘安の役(元寇ね)。ものすごく活躍して、竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」で紹介されている。
    ここで北条政権は「ご恩」を施せず、菊池家はやっぱり政権から気持ちが離れていくんだ。
    • 菊池隆盛 :早世
  11. 菊池時隆(1287年~1304年)
    武房の孫。父の隆盛が早世したため。しかし、これが叔父・武本との不和を呼び、刺し違えて死んでしまう。若いのに。
    しかし、叔父の武本の子は甲斐に移住し、甲斐宗運に血統を残す。
  12. 菊池武時(1292年~1333年)
    時隆の弟。蒙古襲来の恩賞がなく御家人が不満を溜め込んでいる所、九州には鎮西探題が設置され、この役所についたのは北条氏。
    皇位継承問題などもあり、倒幕派として動くが、大友、少弐との連携が取れずに、単独で探題に討ち入り敗北を喫する。
  13. 菊池武重(1307年〜1341年)
    武時の嫡子。父の功績により、後醍醐天皇より肥後守として正式に認められる。これは建武の新政による恩賞。
    菊池千本槍という集団戦法を考案したと言われている。その後も後醍醐天皇にお味方をするので、南朝側で頑張ることになる。菊池氏は九州の南朝方の盟主として結構頑張るんだ。
  14. 菊池武士(1321年〜1401年)
    武重の弟だが、時代に歓迎されておらず、庶兄の補佐で勢力を維持するにとどまる。が庶兄の一人武光に廃立・追放されちゃう。
  15. 菊池武光(1319年〜1373年)
    12代目の九男。熊本市南区城南町の出身。武士の代理人として、北朝と激しく争いながら一族の中で台頭する。懐良親王を征西大将軍としてお迎えして数化数の戦いを優勢に進め、九州における南朝の優位を確立した。残念ながら、九州を南朝に染め抜いたが、東征は失敗し、菊池一族は衰亡の一途をたどるに至る。
  16. 菊池武政()
    1342年〜1374年:武光の子。時流もあり、加速度的に菊池氏の勢いは衰える。そんななか武政も家督をついで半年で世を去る。大変なときに主が1年で二人もいなくなったのだ。渦中の家中はまさに火中と言わざるを得ない。
  17. 菊池武朝(1363年〜1407年)
    武政の子。12歳で家督を嗣ぐ。これって良くない。当初は菊池義武や武安の補佐を受けるが、北朝方の攻勢がパない。1377年頃には九州の南朝方は本当に奮わなくなった。宇土方面に逃げてゆく。1392年の南北朝合一の流れて、北朝と和睦。なんとか肥後の守護代に任じてもらえたそうだ。
  18. 菊池兼朝(1383年〜1444年)
    武朝の子。守護代から守護に出世。阿蘇家から守護職を奪ったことになるみたい。それでも室町幕府に対して従順ではなかったみたい。
  19. 菊池持朝(1409年〜1446年)
    兼朝の長男。父が次男ばっかり可愛がるので、父を追い出して家督を嗣ぐ。武田晴信のパターン。
    父とは違って、幕府に従順なスタンス。でも逆に少弐家や大友家とは対立することになる。戦国時代への伏線が明確に見えてくるね。
  20. 菊池為邦(1430年〜1488年)
    父の死により16歳で家督を嗣ぐ。国人一揆に苦しんだところを島津勝久によって救援されたり、明や朝鮮との交易を行ったみたい。
    しかし、菊池氏の弱体化はこの頃から顕著になる。
    連歌会など文化的な事業にも注力する。
  21. 菊池重朝(1449年~1493年)
    為邦の子。応仁の乱(1467年)の騒動のどさくさで、勢力拡大を図るがうまくいかない。東軍として参加はしていたようだ。
    千葉城に鹿子木親員を入城させたのはこの方。そして、拡張して隈本城になる。
    連歌会など文化的な事業にも注力する。
  22. 菊池能運(1482年~1504年)
    隈部氏や叔父の宇土氏の反乱で菊池家は疲弊する。能運もイチは島原に避難するほど。その後帰還に成功するが、戦傷がもとで23歳で死去。
    若くして当主がなくなるってのがこれで4回目くらい。その都度力を削られていく。安定って本当に大変なんだと思う。
  23. 菊池政隆(1491年〜1509年)
    能運のはとこ。家臣団を手なづけられず、阿蘇惟長との戦いに敗れ、自刃。
  24. 菊池武経 – (1480年〜1537年・阿蘇氏より)
    もともと阿蘇家の人間。もともと阿蘇神社の大宮司職と家督を継いでいたが、普通に乗っ取る。肥後の守護職を奪われた恨みなのか。
    しかし、暴君だったので、追い出される。
  25. 菊池武包 – (?~1532年・詫磨氏)
    菊池氏の血を引くもの。次代のつなぎのための家督継承。義武が元服すると家督を譲る。当主本人はひどく悔しい思いをしたことだろう。
  26. 菊池義武 – (1505〜1554年・大友氏)
    大友義鑑の弟。菊池氏を乗っ取り、大友の参加に入れることを目的としていたが、兄弟仲の問題だろうか、義武は独立独歩を目指し、結局潰される。これで、菊池一族の歴史は終わってしまう。滅びの美学と言うけども、なんとも悲しい。

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