鹿子木親員・寂心さん
鹿子木親員・寂心さん について
寂心さんとして親しまれる戦国武将の 鹿子木親員 。信長の野望ではそれほどの能力値ではないのだが、彼の業績はもっと評価されるべきものだと思っている。
鹿子木荘を中心に、飽田郡・託麻郡を諒していたようだ。菊池一族を支える立場から大友氏に組みしたり相良氏と争ったり、戦国の荒波に翻弄されながらも、藤崎八旛宮の後奈良天皇の宸筆の勅額をゲットし、三条西実隆から源氏物語を購入したりもしている。
戦国時代という人の心が荒んでしまった時期だからこそ、神社や仏閣の再建に尽力し人の心の安寧を祈ったのだろうか。文化的に熊本の歴史に一定の影響を及ぼしている。
表層だけになると思うが、彼のことを調べながら、彼の魅力というか人柄について少しでも伝える内容になれば幸いである。
生年:不明
没年:天文18年3月3日(1549年3月31日)
鹿子木親員、隈本城主となる
鹿子木氏の祖は鹿子木荘(熊本市北区鹿子木町あたり)の地頭として源頼朝の命令で当地にやってきた「三池貞教」と言われている。三池は鎌倉幕府の斎院次官を努めた中原親能を外する説もあるが定かではない。それから鹿子木氏は飽田・託摩・玉名・山本の4郡560町を治めていた。本拠地はいまの楠原神社(楠原城址)だった。
鹿子木親員はその10代目の領主である。生年月日はまったくもって不明。
大永・享禄年間(1521〜1531)の頃、菊池家21代目の重朝(1449〜1493)の命により、出田氏に代わり、千葉城を預かる。
これを拡張して隈本城に拡張する。今古城町あたりがそれ。
この間、鹿子木親員は藤崎八旛宮の遷宮する。10年かけて社殿の造影などを行い、後奈良天皇から永禄2年(1529)に綸旨、天文11年(1542)には宸筆の勅額を下賜されている。
肥後国守護たる菊池氏の政治的な中心人物であった彼は、永正13年(1516)のに阿蘇山と英彦山の衆徒同士の紛争の仲介役を担ったり、相良氏(人吉)と名和氏(宇土)の仲介をしたり、諸領主間の問題を調停していた。鹿子木親員はこの立ち回りの中で大友氏の意向をしっかりと汲んでいたために、信頼を高めていったのだと思われる。
一方で、この間の菊池氏。
21代目・重朝は応仁の乱のタイミングで勢力拡大を図るが、弟・武邦の反乱などで不発。22代目・菊池能運も一族の反乱に苦しむ。23代目・菊池政隆は、能運の実施ではなくはとこ。この頃から、阿蘇氏と大友氏が乗っ取りを企て、彼なりに奮闘するが19歳という若さで戦いに敗れ自害。名門菊池家の衰えに拍車がかかる。
ここで、阿蘇家の当主・大宮司の阿蘇 惟長が24代目・菊池武経として、菊池家を乗っ取る。阿蘇家当主は阿蘇 惟豊に継がせる。
揺れる菊池氏、大友氏の企て
この阿蘇家による菊池氏乗っ取りは、永正2年(1505年)9月15日のことである。
菊池一族連枝の隈部・赤星・城氏の22名の重臣が23代目を排して阿蘇惟長を肥後守護として迎える起請文を阿蘇惟長提出することから始まる。
ただ、この武経いわゆる暴君だったので国人衆からの反乱を恐れて阿蘇領へ逃亡する。(その後いろいろあって、息子を阿蘇大宮司に据える)
25代目・菊池武包は菊池氏の分家「詫摩氏」の出身。隈部・長野・内古閑などの重臣に奉じられ、肥後国守護となる。
これは、菊池氏養嗣子として大友義鑑の弟が入っているので、今度は大友氏が乗っ取った形になる。
これが26代目・義武のときに鹿子木氏、田島氏を人間を重役に就いけている。菊池一族・支族を政治から遠ざけたのだ。
この頃の鹿子木は隠居して「寂心」と号していた。今でも寂心さんとして慕われている。
天文18年(1549年)鹿子木親員はこの世を去る。
鹿子木氏の没落
菊池義武を鹿子木氏はその後も支えるが、大友氏との相克の果に、隈本城を追われる。菊池義武を最後に菊池一族は断絶。
もともと義武は兄である大友義鑑からの自立を目論んでいたようで、鹿子木親員は事あるごとに、諌めていたようだ。しかし、首を縦に振らない義武を、大友は宗麟の代に討つに至ったわけだ。
そのまま鹿子木氏も没落してしまうのだけども、文政文化年間に八代市鏡町の干拓で知られる「鹿子木量平」翁も子孫らしい。いろんな地域に貢献した家計なんだろうな。ちなみに、鹿子木という地名は熊本市北区に今でも結構残っている。
関連スポット
寂心さんの大楠とお墓
寂心さんの自身のお手植えと伝えられている。樹齢は800年だったので、1500年代の彼が手植えしたとしたら、その時既に樹齢300年なんだけど、これってどういうことなのかな?根っこだけ植え替えたりとかできるってこと?
そして、寂心さんのお墓は、この木の根っこに埋もれるように守られている。とにかく大きく、幹周で17.1メートル、樹高は30メートルを超える。新日本名木100選・熊本県指定天然記念物。とにかく見応えはすごい。
アクセス
〒861-5531 熊本県熊本市北区北迫町618
駐車場あり
JR植木駅:徒歩30分
熊本都市バス:植木駅前・徒歩30分
産交バス:万楽寺入り口・徒歩30分
藤崎八旛宮・後奈良天皇の勅額
藤崎八旛宮は恐らく日本で唯一の八「旛」宮だろう。もともとは藤崎八幡宮と書いていたはずだが、戦国時代に藤崎宮を再興した鹿子木親員(寂心さん)が後奈良天皇より賜った勅額に「旛」と書かれていたので、依頼「藤崎八幡宮」となっている。
後奈良天皇はお間違えになられたのか、意味があるのかわからない。
アクセス
〒861-5531 熊本県熊本市北区北迫町618
駐車場なし(お祓いは別)
藤崎宮前駅(熊本電鉄):徒歩7分
藤崎宮前(熊本都市バス・産交バス・熊本電鉄バス):徒歩4分
明午橋(熊本都市バス):徒歩4分