菊池一族は平安時代〜戦国時代にかけて現在の菊池市を中心に栄華を誇った一族で、兵藤・西郷・合志・山鹿・村田・赤星・黒木・甲斐・城・広瀬などの諸氏のルーツにもなっています。その初代が、菊池(藤原)則隆です。
肥後の地に菊池川流域支配の基礎を築き、寺社の勧請も行い、後の菊池一族繁栄の礎を作った人物。生・長元2年(1029)正月〜没・康和3年(1101)3月15日と伝わりますが、史料によってブレがあり確実ではありません。今回はネット上で把握できた範囲でまとめる。
出自に関する諸説
後三条天皇の時代・延久2年(1070年)、大宰府天満宮領の赤星荘(現在の菊池市旭志エリアにあたる荘園)の荘官として着任したという記録があります。ところが「大日本史」「菊池勤王史・平泉澄著」「菊池氏史要略・上米良純臣著」「春記・参議藤原資房の日記」「小右記・右大臣藤原実資の日記」など、全部書いてることが違うので、この初代がどこからやってきたのかがわからない。なので、菊池(藤原)則隆という書き方になる。
菊池姓の起源は謎
貴族・藤原北家の藤原隆家の流れという説もあったけれども、近年は地元の土豪が大宰府長官職にある藤原氏に仕えることによってその姓を賜った、という見方が研究上一般的なんだとか。菊池の姓も以前から名乗っていたと考えられる。
そういう意味では菊池姓はもっと古いものなのかも。紀氏の流れ説とかもあるらしいからもしかしたらこの辺に秘密があるのかな。古代菊池氏というのがいるのかもしれません。
家紋の変遷


菊池氏発祥時には家紋も「日足紋」で「並び鷹の羽」ではなかったそうです。八つ日足という紋がそれらしい。菊池氏は肥後一宮である阿蘇神社の神徳に触れたかったのかな?阿蘇神社の「違い鷹の羽」に寄せたのかと推測。「蒙古襲来絵詞」のときには並び鷹の羽になっていたそうです。鷹というのは武家に好まれた生き物でもあるそうです。
赴任後の治績
赤星荘に赴任した菊池(藤原)則隆は深川菊之城(居館)を構え、子の政隆を七城(西郷)に、保隆を鹿本(分田)に配し、菊池川流域支配の基礎となった。
背景には後三条天皇が延久の荘園整理令がある。これは、延久元年(1069年)に発令されたもので、増えすぎた荘園を整理して朝廷の財政を立て直し、天皇の権力強化が狙いだった。内容としては、寛徳2年(1045年)以後に新しく成立した荘園は原則として認めず、それ以前の荘園でも所有を証明する文書(券契)が不十分なものや、不正に設けられたものは停止・没収の対象としたそうだ。つまり私有地である荘園を制限することで、公地を増やすと、朝廷の税収が増えるという目論見ね。
また、荘園整理を実施するにあたって、記録荘園券契所を設置し、証拠書類を厳しく調べた。その結果、多くの不正な荘園が整理され、摂関家など有力貴族の勢力が抑えられたことで、朝廷の財政や天皇の権威が回復し、後の院政につながる基盤が築かれたわけです。
つまり、そういう行政事務が行われたので、初代、菊池(藤原)則隆の名前が記録されたということでしょう。
深川の佐保川八幡宮や神来(おとど)の貴船神社のほか、旭志弁利(岩本)の円通寺など、流域の寺社勧請も行ったみたい。熊本城の近くにある山崎菅原神社の勧請したらしいから、守護職に。神社好きとしては漏れなく巡りたいところ。
家督と子孫たち
長男の政隆は、どういうわけか「追われる身」だったらしく、三男の経隆が家督を嗣ぎます。経隆の系譜がその後の菊池本家へと続いていきます。
一方、追われる身となった政隆の系譜はというと―西郷隆盛につながってゆくらしい。ちなみに則隆の長男が西郷隆盛のご先祖様だと言われてます。ただしこれは「伝わる」レベルの話で、系譜の確実性については諸説あります。
菊池(藤原)則隆の年表
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 長元2(1029)年 | 誕生年として伝わる |
| 延久2(1070年)年 | 大宰府天満宮領の赤星荘の荘官として着任 彦嶽宮(山鹿市)に合殿(詳細不明) |
| 延久3(1071)年 | 春日神社(熊本市)を創建 山崎菅原神社(熊本市)を創建 住吉神社(宇土市)摂津住吉宮の分霊を勧招し、海上安全の守護神として創建。 |
| 延久4(1072)年 | 大宮神社に阿蘇十二神を勧請 |
| 延久6年/承保元(1074)年 | 高瀬天満宮 / 田中町天神(玉名市)創建 |
| 康和3(1101)年 | 3月15日 没と伝わる |