江戸時代の「地筒(じづつ)」制度は、主に熊本藩で見られた特殊な郷士(ごうし)制度の一形態。この制度では、農民や足軽が「地筒」や「郡筒(こうりづつ)」と呼ばれる鉄砲隊に編成され、地域の警備や防衛に従事していたそうだ。
地筒・郡筒の特徴
- 無給の名誉職:「地筒」や「郡筒」は、実質的に報酬がほとんどない名誉職だったらしい。
- 軍事的目的:これらの鉄砲隊は、地域の防衛や治安維持を目的として組織されていました。
- 地役人や藩士としての動員:鉄砲隊としての役割だけでなく、地役人や臨時の江戸詰め藩士として動員されることもありました。
要するに細川家としては、足軽を帰農させながら、苗字帯刀という名誉だけを許可して、ほぼ無償で、国境や辺境警備をさせていたわけだね。開拓団と言うか屯田兵というか。。。
地筒リスト
八ヶ所地筒
- 保田窪地筒:現・熊本市東区保田窪本町
- 寛永11年(1634年)地筒設置
- 寛永14年(1637年)の天草・島原の乱で阿部弥一右衛門に率いられ参戦:森鴎外の「阿部一族」登場する人物と同一人物か?「阿部一族屋敷跡・私立熊本医学校跡地」
- 明治10年(1877年)、西南戦争が起こった際、薩摩軍に呼応した動きがあったとされてるみたい。
- 楡木地筒
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- 麻生田地筒
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- 黒石原地筒
- 寛永13年、細川忠利の名により、黒石日吉神社周辺にて開拓。島原の乱や黒船に対抗するために浦賀を守ったり、長州征伐で小倉まで出征したりしたみたい。
- 花立地筒
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- 兎谷地筒:現・北区兎谷(うさぎだに)
- 南学院大学博物館研究紀要第8号の「除墨帳」資料紹介に、仁左衛門といいう兎谷の地筒が仲間と山から木を盗んで、御奉行所にバレちゃった!その罪で、なんと苗字と刀を没収、おまけに「ぬ」の字の入れ墨とムチ打ち50回!地筒(おそらく鉄砲)まで没収されちゃって、もう前科持ちのフルコース。その後は真面目に暮らして入れ墨消してほしいとお願いして、「除墨帳」に名前が載ることに。という記録がありました。
- そう、「除墨帳」とは、釈放後に更生が認められ入墨を抜くことが許可された入墨者に関する記録である 。
- 鉄砲小路:現・菊陽町原水
- 寛永12年(1635)正月、当時の熊本藩主、細川忠利公の命によって新設された地筒(地鉄砲)。
- 90名の最大の規模だった。
参照元
- 蘇古鶴神社(菊陽町),オールクマモト
- 足軽,Wikipedia
- 十九世紀熊本藩住民評価・褒賞記録「町在」解析目録,熊本大学附属図書館
- 保田窪“忠霊碑”,まめ八のブログ
- 連載総集編 ふるさと探訪,ワンネスnet
- 託麻の歴史(PDF),熊本市
- 鉄砲小路,くまもっと
- 史料紹介『除墨帳』(一)(PDF),西南学院大学博物館研究紀要第8号
- 黒石日吉神社|オールクマモト