熊本県八代市東陽町を中心に活躍した「種山の石工」。江戸時代後期から明治時代にかけて国内最高峰の石橋築造技術を誇る集団でした。彼らは霊台橋通潤橋といった歴史的な石造アーチ橋を築き上げた。熊本県には300基以上の「めがね橋」が架けられている。明治以降は、政府に招かれて東京にも熊本市の城下町にも彼らのアーチが現存している。そんな彼らの素晴らしい技について物語する。

AIにも手伝ってもらったけど、間違いもおおかったので、可能な限り訂正し、また情報量も絞ってみました。

種山の石工の起源と背景

種山の石工は、江戸時代中期にその活動を本格化させた。その起源については、長崎から移り住んだ林七が祖であるという説が有力視されてるっぽい。

しかし、確固たる史実は残されておらず、林七の墓石には「俗名林七 天保八年没」と刻まれているのみ 。種山石工衆として記録にその名が残る者は約50名に上り、彼らは他国へ赴くと「肥後石工」と呼ばれていたという 。

林七が石工の道に入った背景には、当時日本で唯一の国際貿易港であった長崎の存在が大きく影響していると考えられる。寛永11年(1634年)に日本で最初の石造アーチ橋である眼鏡橋が長崎に架けられた。林七は、この堅牢かつ美しい構造に魅せられ、その原理を解明しようと熱中していた。鎖国という時代背景の中、林七はオランダ人との接触を通じてアーチ橋の基本原理が円周率にあることを学び取ったとされる。その異例の行動が幕府の知るところとなり、身の危険を感じた林七は長崎から肥後へと逃亡したという。

逃亡先は肥後国八代郡種山村だった。当地は、良質な石材が豊富に産出される地域だったので、この地で林七は石工としての技術を習得し、日本に古くから伝わる大工道具である曲尺の裏目を用いることで円周率と合致する「規矩術」と呼ばれる技法を発見し、独自のアーチ橋構築理論を確立したと伝えられている。林七は息子たちと共に試作を重ね、遂に3つの小さなアーチ橋を完成させた。これらが現在の鍛冶屋上橋、中橋、下橋であり、種山の鍛冶屋川に現存している。この1804年(文化元年)の出来事が、日本における石橋文化隆盛の始まりとされる 。

※1634年に完成した長崎のアーチ橋を林七はいつ見たのか問題がありそう。鍛冶屋上橋などの完成が1804年だから、長崎のアーチ橋完成から170年という月日が流れている。

種山の石工の主要人物

橋本勘五郎

種山の石工の歴史の中でも最重要人物は、林七の孫にあたる橋本勘五郎(丈八)だろう。文政5年(1822年)に種山で生まれた勘五郎は30歳頃までの記録が不明。長兄の宇助と次兄の宇市が野津石工の岩永三五郎の門弟だった記録は残っているそうだ。しかし、嘉永2年(1849年)の御船川橋架設碑には兄二人と共に橋本勘五郎の名が刻まれている。

その後、通潤橋の碑には石工頭である宇市の次に副頭として丈八の名が記されている。明治改元頃に橋本勘五郎と改名した彼は、直後に明治政府に招かれ東京に赴き、神田筋違目鑑橋(後の万世橋)などを架設した 。帰郷後は、県内に明八橋、明十橋、永山橋、高井川橋、下鶴橋を架け、福岡県八女市の洗玉橋架設が最後の仕事となり、明治30年(1897年)に75歳でその生涯を閉じた 。東京での橋梁建設における彼の功績は大きく、当時の小学校長の数倍という高給を得ていたことからも、その技術力の高さが窺える 。

岩永三五郎

もう一人の重要な人物として、岩永三五郎の名を挙げることができる。彼は「肥後の石工」として広く知られ、種山石工の中心的な存在であった 。

橋本勘五郎の二人の兄が彼の弟子であったことからも、相当な影響力があったようだ。三五郎は、25歳の時に砥用(現在の美里町)に日本で2番目の水路橋:雄亀滝橋を架け、後に建設される通潤橋のモデルとなった。その後、八代新地の干拓事業にも尽力し(三五郎樋門) 、肥後藩から「岩永」の姓を賜る。彼の活躍は肥後にとどまらず、薩摩藩にも招かれ多くの石橋を架設したそうだ。

種山石工の一員としては、菅原神社のひねり灯籠を嘉永7年(1854年)に制作した文八の名も記録されている 。また、権三別当堂の石垣は、その高い技術から橋本勘五郎、石本文八、またはその弟の栄七のいずれかの作と推測されている 。

石工たちの実績

石匠館と遺産の保存

八代市東陽町には、種山の石工とその技術を後世に伝えるための博物館「石匠館」がある。まさに種山の石工の聖地。

岩永三五郎や橋本勘五郎をはじめとする石工に関する展示や、当時の石橋架設の様子、工夫などを知ることができる。館内には、石橋作りの基礎である支保工を再現した模型や、東陽町に残る21の石橋群を地形模型と写真で紹介するコーナー、肥後熊本の石工の歴史や種山石工、名工の活躍を年表やゆかりの品々を通じて紹介する展示などがある。

他の石工集団との関係

種山の石工と密接な関係にあったと考えられるのが、野津石工である。岩永三五郎は野津石工の棟梁として知られ、橋本勘五郎の二人の兄が彼の弟子であった 。氷川を境に南部を三五郎の野津組、北部を卯助らの種山組が担当するという協定を結び、互いに技術を磨きながら橋を架け続けたという 。両者の技術交流を示す事例として、それぞれの石工集団が架けた橋に見られる「袖石垣」と呼ばれる特徴的な構造が挙げられる 。

肥後種山・野津の石工は、江戸時代後期から明治中期にかけての約70年間、主に石造アーチ架橋工事に従事した石工集団であり、凝灰岩を多く産出する地域という共通点を持つ 。種山石工組は、特定の地域に限定されず、旅石工として九州各地で架橋を行っていたという特徴もある。また、肥後北部、山鹿地方には山鹿石工と呼ばれる集団も存在し、これらの石工集団がお互いに影響を与え合いながら、肥後の石橋文化を醸成していたのかと。

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