初代・細川忠利(2代小倉藩主・初代熊本藩主)

細川忠利 について

生年月日:1586年12月21日

没年月日:1641年4月26日

現代に置き換えると、彼が中学生のときに関ケ原の戦いを迎えることになる。一応人質として徳川秀忠などの側にいた。3男でありながらさまざまな理由で跡継ぎとなった忠利にとっては、この時期の人間関係が肥後細川家の今後にとって大きくプラスとなった。

実際からは加藤家改易後の熊本に入藩することになる。国持大名と同等の扱いを受ける。

島原の乱でも忠利は2万3000もの軍勢を率いて参陣する。

極端なキャラクターだった細川忠興とは対象的なバランスの取れた人柄の忠利は加藤家から熊本をお預かりします。という謙虚なスタンスで善政を布く。55才。父よりも5年先に旅立つ。

彼の正妻は、小笠原秀政の娘で、徳川家康の孫娘を母に持つ、千代姫さんを迎えていて、将軍・秀忠の覚えが目出度かったことがよく分かる。

1620年に小倉藩主となるが、1632年には加藤忠広改易ににつき、肥後54万石に移封。存命の父・忠興は一旦八代城(麦島城)を隠居生活の場とする。

1637年の島原の乱にも参陣。

1641年55歳で没。

細川忠利の功績

細川時代に限らず、熊本は一揆多発のお国柄だったという側面を持っているようだ。江戸時代の250年を通じて300回以上もの百姓一揆が起きている。
もともと熊本って戦国時代を通じてもまとまったことなかったし、色々と事情はあるんだろうけどね。

肥後国司

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