佐川官兵衛

佐川官兵衛 について

生年月日:天保2(1831)年10月10日

没年月日:明治10(1877)年3月18日

薩長から鬼と恐れられ、南阿蘇の民からは慕われる。

彼は幕末の会津藩士として過酷な運命を背負って生きた人物の一人だと思う。

戊辰戦争など会津松平家の悲運を乗り越え、明治十年の騒乱で薩軍に立ちはだかった、佐川官兵衛という人について、少し語ってみたい。

佐川官兵衛 の 背景

天保2年(1831)に会津若松城下に生まれた彼は、江戸幕府と朝廷に忠節を尽くす会津藩の物頭(足軽大将的な立場)として、慶応4年の鳥羽・伏見の戦いから、越後戦線からの会津戦争と戦い抜いた人物である。

幕末の会津藩といえば、誰もが同情せずにはいられないほどの、悲しい物語なのだが、自分の殿様にも、幕府の将軍にも、薩摩にも裏切られたような、そんな理不尽な憤りを抱えたまま、会津戦争が集結するまでの8ヶ月戦い抜いただけでもぞっとする。

そして、その戦の間、薩長から鬼官兵衛(鬼佐川・鬼の官兵衛)と恐れられるほどの武勇を示したそうだ。

懇願され警察官となる

戦後の処分で彼は東京で謹慎することになった。松平家が斗南藩として再興されると、それに従った。ただ、2年後には廃藩置県により、斗南藩もなくなってしまう。

そんな最中、警視長の川路利良に乞われて、官兵衛は300名の旧藩士を引き連れて奉職する。川路は薩摩出身だが、300名の暮らしのために色々とこらえていたことも多かろう。

何と言っても彼はそのお給料から旧藩主へ仕送りするという忠臣ぶりを発揮する。これは若いときにやんちゃしてたっぽいのでそういう罪滅ぼしもあるのかもしれないね。

明神池鬼官兵衛記念館
日本、〒869-1503 熊本県阿蘇郡南阿蘇村吉田1394
西南戦争 佐川官兵衛討死之地碑のそばにある薩軍を弔う石碑など

西南戦争 勃発

明治10年の西南戦争で、官軍として官兵衛は参加。檜垣直枝隊長の副官として、東京から船で小倉に上陸。大分から、久住・竹田を超えて阿蘇に入る。

このとき彼は、戊辰戦争の雪辱を晴らす絶好の機会と捉えていたはず。一方で地元住民が不安にならないように、略奪などをしないように軍規を厳しくし、不祥事が起きなかったことから住民からは慕われており、鬼さまと呼ばれてたとか。

戦略的な意味合いはわからないけど、佐川官兵衛は南阿蘇(白水村)あたりから、阿蘇の北外輪山の二重ノ峠あたりを目指していたらしい。

佐川官兵衛 絶命

二重ノ峠を目指して、出撃した佐川官兵衛や南郷有志隊(隊長・長野一誠)だが、長陽村黒川で薩軍と遭遇。敵方の鎌田雄一郎と一騎打ちとなるが、空気を読まない薩軍の誰かが鉄砲で狙い撃ち。無念の最期を迎えたのだった。

こなることを予見したいのか、鬼官兵衛は、出撃の朝に辞世の句を読んでいる。

君が為都の空を打ちいでて 阿蘇山麓に身は露となる

とにかくその行いがよほど魅力的だったのだろう。南阿蘇には彼のための顕彰碑が数多く存在する。記念館まであるのだから。

西南戦争 佐川官兵衛討死之地碑のそばに故郷の鶴ヶ城の吉野桜

関連スポット

明神池 鬼官兵衛記念館

名水で有名な明神池名水公園内に建つ、佐川官兵衛の記念館。 館内には佐川官兵衛の資料の他、郷土資料等が展示されている。

西南戦争 佐川官兵衛討死之地碑

佐川官兵衛が討ち死にしたと伝わる場所。