紀夏井
若き 紀夏井
まず、紀夏井という人は、6尺3寸(190cm)もの長身で、人柄も大らかだった。
そんなわけで、脳筋タイプかと思いきや、とても利発な子で書道(隷書)に卓越した才能があったとか。
また、承和4年(837年)に父・紀善峯(美濃守)が亡くなり、生活が困窮。結構辛い暮らしを強いられる。
文徳天皇 に見出される
しかし、文徳天皇が承和の変の結果、即位すると藤原良房との暗闘のなか、有能な人材を求めて、紀夏井も召し出されることになる。
忠実で清貧な夏井は文徳天皇から家を与えられ、天皇をしっかりと支えていたそうだ。文徳天皇が崩御され、清和天皇の御代に至ってもその信頼は篤く、讃岐守として地方官デビュー。基本任期の4年間で讃岐の治安は向上。領民の懇願により2年も留任。
讃岐には食糧が満ち溢れ、年貢を取らなくても良いくらいに豊かになったのだとか。
※承和の変:平安時代初期の842年(承和9年)に起きた廃太子を伴う政変。藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている事件。
肥後守として1年
865年(貞観7年)1月27日 。紀夏井は肥後守となる。実は在任期間は1年半程度。866年(貞観8年)9月22日に応天門の変という政変に巻き込まれ流罪となる。
ただ、このわずかな期間に肥後国の領民から大変慕われていたようで、民衆は道を塞ぎ、肥後を離れないように懇願したそうだ。
具体的な実績は不明ながら、その善政は推して図るべきだろう。
土佐に流罪となったその後も、近隣の民を救っていたという。
実は、肥後は当時相当に荒れていたようだ。肥後守となったときに夏井の母が「野蛮で汚職が横行している肥後に行くなんて」というふうに嘆いたらしい。
なるほど、彼が登場するまで、領民が国司(肥後守)を慕っているという情報が見当たらない理由はこれだと。荒れていたから、歴代の実績も散逸してしまったのだろう。あるいは、中央も藤原家の増長?なんかで地方の領民はやけっぱちになっていたんだろうなと。
流罪という不遇。政争に巻き込まれただけの人だが、その上で、世を捨てず、最後まで民を慈しんだ彼の人間性は、神々しいとしか言いようがない。
紀夏井などの失脚により、武内宿禰からの古代豪族である紀氏は、政治の表舞台から姿を消す。そして藤原氏の勢力は増してゆく。
関連スポット
高知県に彼の終の棲家が有る。熊本人としていつか挨拶に行ってみたい。