肥後の國造

國造

肥後 の 國造 について

くにのみやつこ、こくぞう、こくそうなどと読む。

大和朝廷と地方豪族の時代の行政区分である「国」の長官的な役割を果たした「地方豪族」が「國造」に就いていた。肥後国に組み込まれる前の阿蘇の阿蘇國造などが有名。

律令制度が浸透すると、支配権のない神職を世襲して、行政権などは国司に取って代わられる。まさに阿蘇大宮司家を彷彿とさせる。

その他の豪族は普通に郡司層で活動することになる。

そして、肥後には阿蘇國造以外に、火國造、葦北國造、天草國造があった。

本項ではこの4つの國造について調べたことをまとめている。今後も充実させたいので情報提供もお願いします。

さて、4つの國造にさらっと触れよう。

阿蘇國造

阿蘇国造神社に祀られている「速瓶玉命」が初代。健磐龍命に始まる阿蘇の歴史を統べている。日本屈指の旧家で天皇家や千家・北島家に嗣ぐくらいの歴史を持つ家柄。

神話はともかく900年頃の宇治友成という人が20代目にして、初代大宮司となり、現在まで神職を継承している。熊本の地名神話には阿蘇家にまつわるものがとにかく多い。

阿蘇家(をもっと詳しく!

火國造

火国の支配領域(想像)

ひのくにみやつこ:火国は現在の熊本県・佐賀県、長崎県とされる。

国造本紀によると、崇神天皇の時代に阿蘇國造とかと同じ「多氏」の血統とされるが、別の資料では「建緒組・たけおぐみ」別名「健緒純・たけおみず」の血統だったり、景行天皇の皇子だったり、説が多すぎるので事実は不明。景行天皇の命令によって、益城郡にいた土蜘蛛討伐をしたことで、

健軍神社はもともと建緒組の祖を祀っていたのではないかと思われる。
つまり、境内社の国造神社は本来、阿蘇國造ではなくて、火の君(建緒組命)を祀っていたんじゃないかって想像もできる。

その後、国内を巡察してる時、虚空に火が出現して山に火が就いた。驚いた健緒組は、朝廷に参上して戎征討を復命した際にこの出来事を奏上。すると、天皇は「奏上したようなことは未だ聞いたことがない。火が下った国だから火国と謂うべきだろう」と勅した。そこで健緒組の勲功を挙げて姓名を与え、火君健緒組といった。そのまま健緒組に国を統治させ、火によって火国といったのが由来となっているようだ。

この範囲は雲仙普賢岳とか阿蘇山とかまさに「火」の国だったんじゃないかなと想像するのは私だけだろうか。

あれ、でも阿蘇國造は別にいるので、阿蘇国はエリア外なのか・・・・

葦北國造

葦北国は現在の水俣市〜八代市など葦北郡周辺を領域としていたようで、吉備津彦命の子である三井根子命を國造とした説もあり、別資料に火葦北国造と書かれてたりするので、火国の支流である可能性も指摘されている。

古墳時代の火葦北阿利斯登(ひのあしきたのありしと)という人が大伴金村の配下だったような雰囲気。息子の日羅は百済で高官になったとか。

天草國造

今の天草と鹿児島の長島町を支配していたと思われる。成務天皇の御代に建島松命が國造になったという以外あんなりよくわからない。五和町城木場あたりを国府としていたらしいけど。

参照情報

肥後国司

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