肥後国司
古来より 肥後国 を任されし者たち
以前は肥前国と一緒に火国だったものが分割されたのだが、それでも肥後国は奈良時代〜平安時代の律令政治の中で、大国として扱われている。細かく言うと律令体制が確立する前は阿蘇国、葦北国、末羅国、葛津国、筑志米多国などが火国にまとめられて、その後、肥前・肥後に別れたものようだ。
なので古代大和朝廷には、阿蘇國造・火國造・葦北國造・天草國造がいたそうだ。律令国家を形作るなかでこの人達はいなくなってしまう。
国司の仕事
律令制度の確率。つまり、中央集権をすすめる中で、地方の長も中央から派遣された行政官が行うようになった。大国(当時の国の等級で最上位のひとつ)である肥後国の国司は中央では中級貴族そうだ。
彼らは国府(今で言う県庁所在地?)で努めを果たし、肥後守・肥後介・掾(じょう)・目(さかん)などの役職があった。
ここでは、奈良〜平安の肥後国司を務めた人々を紹介していきたい。
国司四等官職
守と介の役割の違いはわからないけど、守が上位だと思う。
肥後守 | 肥後介 |
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712年(和銅5年) – 718年(養老2年) | |
道君首名 生・天智天皇2年(633年)〜養老2年4月15日(718年5月18日) 初代国司、熊本市内各地に彼の事績が遺る | |
806年(大同元年)1月28日 〜 | 809年(大同4年)1月23日 – 812年(弘仁3年)4月19日 |
高倉殿継 生没年不明・高麗朝臣から高倉朝臣となる渡来人系官僚。 送高麗使として外交(渤海国など)に携わったり、中央・地方の官僚として 肥後国司としての事績は不明。 | 豊宗広人 |
812年(弘仁3年)1月12日 -9月27日 | 812年(弘仁3年)4月19日 – |
大枝永山 生没年不明 着任してすぐに、刑部大輔に就くのだがすぐに肥後守として再任されている。事績は不明。 | 菅原清人 |
812年(弘仁3年) 9月27日 | |
紀咋麻呂 (きのくいまろ) 生・ 天平勝宝7歳(755年)〜没・天長10年1月19日(833年2月12日) 肥後守はほんとに一瞬しかいなかったみたい | |
813年(弘仁4年)2月21日 – | |
大枝永山 再登場 | |
827年(天長4年)3月9日 – | |
藤原村田 生没年不明 藤原南家の巨勢麻呂の流れ。右少弁から肥後守に就任。その後、時期不明ながら蔵人・讃岐守などを歴任した。 | |
834年(承和元年)頃 | |
粟田 飽田麻呂 (あわた の あきたまろ) 宝亀8年(777年)か延暦23年(804年)に遣唐使に随行する留学生として唐に渡る。きっと優秀な人材だったのだろう。 諸陵寮という陵墓の管理だったり皇族葬儀の儀礼などを職掌としていた官僚となり、豊後介を兼任。そして、肥後守となる。このときは過去の経験を活かして、新羅などとの外交にも携わっていたかもしれない。 | |
836年(承和3年)以前 | |
藤原高総 詳細不明 | |
846年(承和13年)1月13日 – 847年(承和14年)2月11日 | |
大和 吉直 (やまと の よしなお) 肥後守として1年務めると兵部少輔などを歴任、仁明天皇の皇女の喪事を監護した。後に木工頭となり、天安への改元を諸天皇陵報告し、越前介、武蔵権介、常陸権介、安芸守などの地方官も務めた。また、従五位上に叙せられている。生没年は不詳。 | |
849年(嘉祥2年)1月13日 – 2月27日 | |
藤原 正世 (ふじわら の まさよ) 生没年不明。842年に従五位下・刑部少輔に叙任されたが、同年の承和の変に連座し、安芸権介に左遷された。恩赦により入京を許され、848年に治部少輔に任命された。849年には肥後守に転じ、以降は河内権守、河内守、常陸介と地方官を務めた。860年には大蔵少輔として京官に復帰したが、翌年再び地方官の因幡介に転じた。 | |
849年(嘉祥2年)2月27日 – | |
有雄王のちの清原 有雄(きよはら の ありお) 生年不明〜天安元年12月25日(858年1月13日) 舎人親王の玄孫で皇族の一人だったお方。彼は地方官として摂津守に任命された後、出雲守や肥後守を歴任し、嘉祥2年に従四位下、嘉祥3年には臣籍降下して清原真人姓を与えられ854年から清原有雄として肥後守を務める。彼は天安元年に散位従四位上で死去し、彼の死に対する人々の哀悼は極めて深かった。彼は人柄に風格があり、政治の理論にも熟練していた。 | |
855年(斉衡2年)1月15日 – 855年(斉衡2年)8月23日 | |
高階 峯緒 (たかしな の みねお) 生没年不詳。平安時代初期から前期にかけての貴族で、左大臣・長屋王の玄孫である。彼は地方官を歴任し、従五位上から順調に昇進していき、斉衡4年に左中弁に転じた後、京官として大蔵権大輔・大蔵大輔を務め、貞観2年には従四位下に昇叙された。貞観3年には丹波守に転任し、再び地方官を歴任した後、貞観10年に従四位上に叙せられ、同年2月に神祇伯に任命された。 | |
855年(斉衡2年)8月23日 – 859年(貞観元年)12月21日 | |
藤原冬緒 (ふじわらのふゆお:生・大同3年(808年)〜没・寛平2年5月23日) 藤原京家、参議藤原浜成の孫であった。彼は官位を正三位、大納言に昇進するまでに能吏として清和・陽成朝を支え、政治的には振るわなかった藤原京家においては際立った存在であった。彼は儒学の才能に加えて、民政にも明るく、官田の設置を提唱して財政再建を行った。彼は公卿になる前に60歳を過ぎ、80歳を超える長命を保った。結果的に京家出身の最後の公卿となった。彼は、勘解由判官、式部少/大丞、六位蔵人、右少弁、伊勢介、春宮亮、肥後守、正五位下・右中弁、従四位下、従四位上、右大弁、参議、大宰大弐、弾正大弼、勘解由長官などの役職を歴任しており、彼の器量や見識は吏幹と称されていた。彼は、貞観11年(869年)12月に参議に任命され、公卿に列した。同時に大宰大弐に再任され、新羅の入寇で動揺する大宰府へ下向することになった。彼は、新羅の来襲への対策を踏まえて烽燧(敵の来襲を知らせる狼煙)について提言し、認められた。 | |
858年(天安2年)2月5日 – | |
紀有常(きのありつね) 権守を務める。 紀有常は彼は幼少期から仁明天皇に仕え、後に左兵衛大尉として天皇に奉仕しました。その後、蔵人兼左近衛将監に任命され、文徳朝では右兵衛佐や右近衛少将といった役職を務めました。しかし、文徳朝末には地方官に転任することになり、清和朝では刑部権大輔や下野権守、信濃権守といった地方官を務めました。最終的には従四位下行周防権守の地位に昇進しましたが、貞観19年に亡くなりました。彼の享年は63歳でした。 有常は、清らかでつつましく、礼儀正しい性格の持ち主であり、勅撰歌人として『古今和歌集』『新古今和歌集』にそれぞれ1首ずつ採録されている。彼は『伊勢物語』16段で、妻が尼になって去ってしまったことを悲しんだが、友人と和歌のやりとりをした。 生誕 弘仁6年(815年) 死没 貞観19年1月23日(877年2月9日) | |
866年(貞観8年)11月29日 – | |