道君首名(みちのおびとな)

肥後国司

道君首名 について

生年:天智天皇2年(663年)

没年:養老2年4月10日(718年5月18日)

「続日本紀」という文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱う勅選史書に登場する人物。何がすごいって、個人の事績を収録しているのは4名だけしかいない。ちなみに他の3名は僧なので、いかに道首名の存在が突出していたかがわかる。

肥後国の住民も知っている人は、この道君首名に敬意をもって接しているようだ。

本項では、個人的に調べた情報を元に、道君首名 の魅力についてまとめていきたい。

中央官吏としての 道君首名

道氏は安倍氏の一族らしく、北陸地方の豪族が出自らしいという説があるが、詳細はわかっていない。加賀の石川郡味知郷の郡司だったという説もある。

ちなみに、道 君 首名の「君」は姓なので、称号として認識していれば良さそう。しかしながら、肌感覚として、熊本県内は「道君首名」と書いてるケースが多い気がするので、ここでは敬意と込めて「道君首名」と記す。

663年生まれなので、まだ日本は元号を定めていない。乙巳の変から20年弱のタイミングで産声を上げている。

天智天皇が目指す中央集権・律令政治を学んでいたという。刑部親王、藤原不比等、栗田真人、下毛野古麻呂とともに、大宝律令の起案に深く関わっている。

地方官吏としての 道君首名

その後、平城京への遷都があり、和銅5年(712年)に遣新羅大使を務めた翌年に、筑後守に任じられ、肥後守も兼任する。この頃の筑後の国府は久留米市なので、近いといえば近い地域を任されたとも言える。ちなみに熊本の国府は江津湖の近く。電停にその名前が残ってる。

任地では耕作・果樹・菜園の指導、鶏・豚などの家畜の飼育方法など、季節に併せたノウハウを指導したり、巡回も怠らなかった。従わない人に対しては厳しい対応をしていた様だが、年々、収穫が増えてゆくので、国中の人々が懐いたという。

味生池などの溜池を造営したり護岸工事を指導したりと、灌漑努力も推進して、随分と豊かになったようだ。

その結果だろうか、彼の没後80年ほどして、肥後国は795年(延暦4年)に上国から大国(九州で唯一)になって大和政権の下、存在感を光らせている。

味生池は加藤清正によってその役割を終えて、今は残っていないが、池上とか池辺という地名として残っている。

神様となった 道君首名

養老2年(718年)道君首名は肥後国司(肥後守)として在任中に亡くなったようだ。

首名塚というお墓っぽいものは久留米市にあるそうだ。また熊本市西区でも彼への信仰が高まり、「高橋東神社(天社宮)」という神社もある。

東区の健軍神社境内にも天神社として祀られている。

まいどまいどのことながら、水をコントロールすると農業やら何やら発展するので、本当に地域の人々から感謝されるんだね。そして神様になるんだね。

玉名市天水町の小天宮の火祭りとかも残っている。さらに、水前寺は彼の住居跡に寺を建てたことから水前寺と呼ばれているし、味噌天神(本村神社)を疫病退散の御祖として祀ったのも彼だと言われている。

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