阿蘇家

阿蘇家 は皇室や出雲大社の千家家・北島家と同じく神代から続く長い歴史を誇る家柄です

阿蘇家 の始まりは阿蘇国造という役職

阿蘇家 の祖は、速瓶玉命(はやみかたまのみこと)としている。

速瓶玉命は阿蘇神社の御祭神・健磐龍命の子であり、阿蘇國造として、阿蘇神社を創建した神様です。命じたのは7代目の孝霊天皇。しかも建磐龍命は神八井耳命

時代が下り900年代(延喜年間)阿蘇神社の神官家系の宇治友成が大宮司職を世襲するようになったらしい。平安の頃から伊勢神宮や熱田神宮・鹿島神宮・宇佐神宮・香椎神宮・宗像神社・気比神社などの一部の大社には大宮司と少宮司が置かれていた。そういう位置に阿蘇神社は存在している。

宇治氏のルーツも、建磐龍命のルーツも京都の宇治に連なるので、名乗りの背景はそこにあるかもしれないと囁かれている。

その後12世紀の惟泰の時に阿蘇という名字を賜ったらしい。これはどなたから頂戴したのでしょうか?ご存じの方は教えて下さい。以来、現在まで栄枯盛衰を繰り返しながらも途絶えることなく阿蘇の系譜は脈々と受け継がれています。

そんな阿蘇家の歴史について学んでみたことをまとめていきます。随時更新されるので、ときどき覗いてくださいね。

健磐龍命(たけいわたつのみこと) 神話上の 阿蘇家 の祖

阿蘇家 が大宮司を務める阿蘇神社の御祭神として有名であり、神武天皇のお孫さんなので、阿蘇家は皇族に連なる。京都・宇治から阿蘇移動する中での行いが、様々な神社の起こりとなっている。さらに大きな水たまりだった阿蘇山の水を抜いて農耕できるようにしたりしています。阿蘇十二神の一宮です。

建磐龍命

速瓶玉命(はやみかたまのみこと) 神話上の 初代阿蘇国造

健磐龍命と阿蘇都姫命の子で、二人の阿蘇の開拓事業を継承。阿蘇十二神の十一宮。雨宮媛命を妻とし、10代・崇神天皇に初代の阿蘇国造に任命される。阿蘇国造神社には速瓶玉命と妃宮である雨宮媛命、またその子である高橋命、火宮が祀られている。

速瓶玉命

》稚人君命:惟人君命。

速瓶玉命の子、健磐龍命の孫なのかな?神話的には初代の阿蘇大宮司とされているけど、実際の歴史には宇治友成(20代目國造)が初代と記録されている。

》成兼丸

稚人君命の子?

こんな感じで神話伝承の阿蘇家は始まる。

》古墳時代

古墳時代の時期の 阿蘇家 の記録は伝承や大和王権の記録などが入り混じったりしていて本当のところがよくわからないらしい。ですが、中通古墳群などは古墳時代の 阿蘇氏 一族のものだと考えらているので、阿蘇家やその祖が阿蘇神社の祭祀を行いながらも、領内に田地開墾を頑張って、勢力を強くしていったのではないかと、想像するわけです。

そのよくわからない歴史の中で宇治友成 が20代目阿蘇國造にして初代の阿蘇大宮司というどなたかの説を前提として、さらに阿蘇家の系譜を辿っていこうと思う。

そこまでは25人位國造だったと思われる人物が登場するが実在しない人もいるんだろう。

》宇治成輔:?代目阿蘇國造

》宇治高正:?代目阿蘇國造

》宇治高軌:?代目阿蘇國造

》宇治友則:?代目阿蘇國造

》宇治友兼:?代目阿蘇國造

》宇治惟兼:?代目阿蘇國造

》宇治成時:?代目阿蘇國造

》宇治利名:?代目阿蘇國造

》宇治頼高:?代目阿蘇國造

》宇治成時:?代目阿蘇國造

》宇治則高:?代目阿蘇國造

》宇治惟教:?代目阿蘇國造

》宇治惟文:?代目阿蘇國造

》宇治惟氏:?代目阿蘇國造

》宇治忠行:?代目阿蘇國造

》宇治惟峰:?代目阿蘇國造

》宇治友助:?代目阿蘇國造

》宇治惟顕:?代目阿蘇國造

》宇治惟明:?代目阿蘇國造

》宇治惟保:?代目阿蘇國造

》宇治遠明:?代目阿蘇國造

》宇治宗延:?代目阿蘇國造

》宇治惟情:?代目阿蘇國造

》宇治友利:19代目阿蘇國造

いずれにしても、弟という設定の宇治友成は、20代目の阿蘇国造という説を採用すると19代目となる。

国造というは古代日本の行政制度では、軍事権や裁判権をもつ地域の支配者的な役割だったが、乙巳の変以降は祭祀を行う世襲的な名誉職・神主的な役割だったようです。中央集権の律令国家を目指す朝廷による地方への支配力の強化だと理解すればよいのかな。

》宇治友成 20代目阿蘇國造 初代の阿蘇大宮司

宇治友成は世襲的に20代目の阿蘇国造となりました。実は兄(宇治友利)がいて、当初二人で阿蘇を統治していたようだ。友成は神主になり、やがて初代の阿蘇大宮司となったとか。平安時代の延喜年間の人。謡曲「高砂」登場。いまも阿蘇神社の境内には「高砂の松」がある。延喜3(903)年2月叙爵している。

ここから 阿蘇氏 は 阿蘇大宮司家 としての歴史を積み上げることになる。本姓の宇治をしばらく名乗り続ける。

》宇治友仲 第2代阿蘇大宮司

あまり詳細がしられていないが、先代・友成の子であろうこと。高森町の祖母神社や山都町の小一領神社などを創建したと言われる。一般的には阿蘇友仲と呼ばれることが多そう。

》宇治友孝 第3代阿蘇大宮司

友仲の子、天養元年(1144年)にもともと、神武天皇を祀っていたと言われる郡浦神社(宇城市三角町)に健磐龍命・速瓶玉命を祀ったり、幣立神社阿蘇十二神を祀ったらしい。

また、菊池経直とともに、網田神社を再興するしたという記録があるようだ。

》宇治友実 第4代阿蘇大宮司

友孝の子。事績不明。情報求む

》宇治友房 第5代阿蘇大宮司

友実の子。弟・惟元が権禰宜を務める。本人の情報求む

》宇治惟俊 第6代阿蘇大宮司

友房の子。詳細不明。情報求む

》宇治惟宣 第7代阿蘇大宮司

惟俊の子。康治元年(1142年)12月の文書が見つかっているので、平安末期の大宮司だったと思われる。詳細は不明。

》宇治資永 第8代阿蘇大宮司

惟宣の子。詳細は不明。

阿蘇惟泰 第9代阿蘇大宮司

資永の子。1180年(治承四年)正月、中院 源定房から阿蘇神社および健軍神社の大宮司に補任され、翌年の1181年(養和元年)2月29日には、菊池隆直の鎮西養和内乱に与し、平家討伐に参加。阿蘇神社のある阿蘇谷から本拠を南阿蘇(南郷谷)に移しており、南阿蘇から甲佐町方面への開発を進めていたようだ。

名越谷阿蘇神社を勧請したり、治承・寿永の乱では平家側にいたので、大宮司職を剥奪されたりもしたらしい。復活するまでの期間は北条時政によって阿蘇神社は管理されていたらしい。

阿蘇惟次 第10代阿蘇大宮司

惟泰の子。父が大宮司職を剥奪されたものの、1196年(建久7年)には北条時政が、阿蘇惟次を阿蘇大宮司に補任している。また、阿蘇惟次以降、本拠を南阿蘇から矢部の浜の館に移す。大宮司職の傍ら、武家としても成長する阿蘇家である。国宝・通潤橋のそばにある岩尾城は彼によって縄張りされたのが始まりらしい、

阿蘇 第 代阿蘇大宮司

阿蘇 第 代阿蘇大宮司

阿蘇 第 代阿蘇大宮司

阿蘇 第 代阿蘇大宮司