阿蘇家 (阿蘇大宮司家・阿蘇氏)
阿蘇家 は皇室や出雲大社の千家家・北島家と同じく神代から続く長い歴史を誇る家柄
阿蘇家 は伝承から始まる
現代まで続く日本屈指の旧家の歴史を紐解く。
阿蘇家 の祖は、速瓶玉命(はやみかたまのみこと)としている。
速瓶玉命は阿蘇神社の御祭神・健磐龍命の子であり、阿蘇國造として、阿蘇神社を創建した神様です。命じたのは7代目の孝霊天皇。しかも建磐龍命は神八井耳命の子なので、神武天皇のお孫さんということになる。(系図は記紀や古史古伝によって諸説あり)
しかしながら、『日本書紀』(535年頃)に「阿蘇君」と見える阿蘇氏は、元来ヤマト王権下でも独立性の高い「君」でした。しかし、527年の磐井の乱を経て王権が九州支配を強化すると、行政官である「国造」として体制内に組み込まれていきます。
「君」から「国造」へ — 火山鎮撫が築いた阿蘇氏の盤石な地位
この変化の中で、阿蘇氏が単なる地方官に埋没しなかった要因が「火山鎮撫」です。朝廷にとって阿蘇山の噴火は国家的な脅威であり、その怒りを鎮め得る唯一の存在として、阿蘇氏は不可欠視されました。彼らはこの祭祀権を背景に、国家から異例の速さで「神階」の昇進を獲得し、行政権力に加え、中央も無視できない絶大な宗教的権威を確立したのです。
富と特権の独占 —— 神階上昇がもたらした莫大な「実利」
神階の上昇は、阿蘇家に名誉以上の莫大な経済的利益をもたらしました。最大の実利は、朝廷へ納める税がそのまま神社の収入となる「神戸(かんべ)」や「神田」の獲得です。
阿蘇郡内の多くの民が「神戸」に指定されたことで、阿蘇家は合法的に地域からの税収を独占し、国司の介入を受けない安定した財源を確保しました。さらに、高位の神を祀る社家という立場は、現地の国司に対しても政治的な発言権を強める盾となりました。
このシステムにより蓄積された圧倒的な財力が、後に阿蘇家が強力な武士団を養い、地域を実効支配するための経済的基盤となったのです。
阿蘇大宮司家には確定的な系図が無いので、このページだけで正しい情報を網羅するのは難しいのはわかりきっているのだけど、当主を通じた阿蘇家の歴史を抑えていけたらと考えている。個人的な学びのための個人的な資料になってしまいそうだけど、皆さんの参考になれば幸いです。
したがって、更にこのページは常にアップデートされるので、気がついたことなどはぜひご教授ください。
この神代の時代の阿蘇家の系譜を覗いてみる。
》健磐龍命(たけいわたつのみこと) 神話上の 阿蘇家 の祖
阿蘇家 が大宮司を務める阿蘇神社の御祭神として有名であり、神武天皇のお孫さんなので、阿蘇家は皇族に連なる。京都・宇治から阿蘇移動する中での行いが、様々な神社の起こりとなっている。さらに大きな水たまりだった阿蘇山の水を抜いて農耕できるようにしたりしています。阿蘇十二神の一宮です。
》建磐龍命
》速瓶玉命(はやみかたまのみこと) 神話上の 初代阿蘇国造
健磐龍命と阿蘇都姫命の子で、二人の阿蘇の開拓事業を継承。阿蘇十二神の十一宮。雨宮媛命を妻とし、10代・崇神天皇に初代の阿蘇国造に任命される。阿蘇国造神社には速瓶玉命と妃宮である雨宮媛命、またその子である高橋命、火宮が祀られている。
》速瓶玉命
》彦御子神・阿蘇惟人
速瓶玉命の子、健磐龍命の孫なのかな?神話的には初代の阿蘇大宮司とされているけど、実際の歴史には宇治友成(20代目國造)が初代と記録されている。阿蘇十二神の五宮。維人命・椎人命とも。
彦御子神・阿蘇惟人は高森町の祖母神社とか御船町の辺田見若宮神社などに祀られています。
古墳時代
中通古墳群などは古墳時代の 阿蘇氏 一族のものだと考えらているので、阿蘇家やその祖が阿蘇神社の祭祀を行いながらも、領内に田地開墾を頑張って、勢力を強くしていったのではないかと、想像するわけです。
古墳時代はまた、九州は磐井の乱などの結果、ヤマト王権が九州への影響力を強めることになる。阿蘇周辺同じような流れなんだろうね。その中で大和朝廷から氏姓制度のなかで宇治という姓をいただいたと見られる。
歴代の国造
歴代の阿蘇国造について、阿蘇家の系図は統一されたものが見当たらないが、「阿蘇氏大系図」や「阿蘇氏系図の古代部分の検討」などを参考にすると、速瓶玉命を継いだのは、建渟美命と美穂主命と言われる。
存在を消された彦御子神(阿蘇惟人)の創建の神社とかはどうなるんだ?と思わざるを得ないけど、こちらの系図を追ってみる。
建渟美命 → 美穂主命 → 宇治部武凝人(乃君) → と続く
》宇治友利:19代目阿蘇國造
宇治友成が、20代目の阿蘇国造という主説を採用すると19代目となるはずなんだけど、それ以前に23名の國造がいるようなので、オールクマモトとしては、このあたりは理解しようとせず、20代目とされる友成を基準にカウントしていこうと思う。
この国が律令制に目覚めるもっと昔には「宇治」姓を与えられたことにして、20代目の国造、友成までは「宇治」をの乗っていた。宇治姓も、建磐龍命のルーツも京都の宇治に連なるので、背景はそこにあるかもしれないと囁かれている。この友成移行、大宮司職を世襲するようになったとのこと。
平安の頃から伊勢神宮や熱田神宮・鹿島神宮・宇佐神宮・香椎神宮・宗像神社・気比神社などの一部の大社には大宮司と少宮司が置かれていた。阿蘇神社はそういう立場の神社なのである。
その後12世紀の惟泰の時に朝廷(院政期の権力)から「阿蘇」の姓を与えられ、以後は阿蘇惟泰と称した、とされる。 これは、古くから阿蘇の国造・大宮司として土地と一体だった一族が、「地名=氏」を公式に名乗ることを許されたのだと思われます。
以来、現在まで栄枯盛衰を繰り返しながらも途絶えることなく阿蘇の系譜は脈々と受け継がれています。
そんな阿蘇家の歴史について学んでみたことをまとめていきます。随時更新されるので、ときどき覗いてくださいね。
國造から大宮司へ
阿蘇に限らず、國造というのは古代の地方豪族が任じられてることが基本だが、大化の改新、律令制が始まると、地域の支配権を持たず、世襲の祭祀主(阿蘇の場合大宮司)という立場に変わっていく。
》宇治友成 20代目阿蘇國造 初代の阿蘇大宮司
生没年不詳。宇治友成は世襲的に20代目の阿蘇国造となりました。実は兄(宇治友利)がいて、当初二人で阿蘇を統治していたようだ。友成は神主になり、やがて初代の阿蘇大宮司となったとか。平安時代の延喜年間の人。謡曲「高砂」登場。いまも阿蘇神社の境内には「高砂の松」がある。延喜3(903)年2月叙爵している。
ここから 阿蘇氏 は 阿蘇大宮司家 としての歴史を積み上げることになる。本姓の宇治をしばらく名乗り続ける。阿蘇友成とはあまり呼ばれなかったみたい。
幣立神社を創建。
》宇治友仲 第2代阿蘇大宮司
生没年不詳。先代・友成の子であろうこと。高森町の祖母神社や山都町の小一領神社などを創建したと言われる。一般的には阿蘇友仲と呼ばれることが多そう。
》宇治友孝 第3代阿蘇大宮司
生没年不詳。友仲の子、天養元年(1144年)にもともと、神武天皇を祀っていたと言われる郡浦神社(宇城市三角町)に健磐龍命・速瓶玉命を祀ったり、幣立神社に阿蘇十二神を祀ったらしい。
また、菊池経直とともに、網田神社を再興するしたという記録があるようだ。
》宇治友実 第4代阿蘇大宮司
生没年不詳。友孝の子。事績不明。情報求む
》宇治友房 第5代阿蘇大宮司
生没年不詳。友実の子。弟・惟元が権禰宜を務める。本人の情報求む
》宇治惟俊 第6代阿蘇大宮司
生没年不詳。友房の子。詳細不明。情報求む
》宇治惟宣 第7代阿蘇大宮司
生没年不詳。惟俊の子。康治元年(1142年)12月の文書が見つかっているので、平安末期の大宮司だったと思われる。詳細は不明。ただ、阿蘇家の系図として信頼できるのはこの方からだという説があるらしい。
》宇治資永 第8代阿蘇大宮司
生没年不詳。惟宣の子。詳細は不明。
》阿蘇惟泰 第9代阿蘇大宮司
生没年不詳。資永の子。1180年(治承四年)正月、中院 源定房から阿蘇神社および健軍神社の大宮司に補任され、翌年の1181年(養和元年)2月29日には、菊池隆直の鎮西養和内乱に与し、平家討伐に参加。阿蘇神社のある阿蘇谷から本拠を南阿蘇(南郷谷)に移しており、南阿蘇から甲佐町方面への開発を進めていたようだ。
彼の時代に、朝廷(院政期の権力)から「阿蘇」の姓を与えられ、以後は阿蘇惟泰と称した、とされる。
名越谷阿蘇神社を勧請したり、治承・寿永の乱では平家側にいたので、大宮司職を剥奪されたりもしたらしい。復活するまでの期間は北条時政(鎌倉幕府の初代執権)によって阿蘇神社は管理されていたらしい。
》阿蘇惟次 第10代阿蘇大宮司
生没年不詳。惟泰の子。父が大宮司職を剥奪されたものの、1196年(建久7年)には北条時政が、阿蘇惟次を阿蘇大宮司に補任している。また、阿蘇惟次以降、本拠を南阿蘇から矢部の浜の館に移す。大宮司職の傍ら、武家としても成長する阿蘇家である。国宝・通潤橋のそばにある岩尾城は彼によって縄張りされたのが始まりらしい、
》阿蘇惟義 第11代阿蘇大宮司
生没年不詳。阿蘇惟次さんの子供で男成神社で成人した。
》阿蘇惟忠 第12代阿蘇大宮司
生没年不詳。阿蘇惟義の嫡子と思われる。叔父の惟盛が大宮司を継いだ説もあるが、いろいろと謎。
文暦2年8月27日まで大宮司。応永22年に生まれた阿蘇惟忠もいる。
》阿蘇惟景 第13代阿蘇大宮司
生没年不詳。惟忠を継いでいるけど、兄弟と思われる。貞永元年(1232年)にはすでに大宮司になっていた様子。鎌倉幕府も北条家による盤石な支配をしていた頃でしょうか。御家人の安達景盛(幕府の重要人物)の荘園管理に関わっていたみたいで、大宮司家というより武家としての伸張が著しい時期だったようですね。
》阿蘇惟資 第14代阿蘇大宮司
生没年不詳。阿蘇惟景の子供なんだけど、早世してしまったようです。この方についての詳細はわからないみたいだね。
》阿蘇惟国 第15代阿蘇大宮司
生没年不詳。先代・阿蘇惟資の弟さんにあたるみたい。神職から武家へと変貌する中で、いろいろな立場で家督争いの種火のようなものが、生まれたらしい。穢れを嫌う浸透の家でありながら、血なまぐさい武士としても生きている矛盾はあるよなぁ。あ、でもそれは阿蘇大宮司家だけが矛盾していたわけではないのだが。
》阿蘇惟時 第16代阿蘇大宮司
阿蘇惟時(?〜1353年)は、阿蘇惟国の子。鎌倉時代末期から南北朝時代前期にかけての阿蘇大宮司であり、激動の時代に南朝と北朝の間で揺れ動いた武将。
子の惟直に大宮司職を譲っていましたが、元弘の乱(1333年)で後醍醐天皇方として上洛し、六波羅探題攻めに参戦。帰国後、惟直が多々良浜の戦い(1336年)で討死したため、大宮司に復帰しました。
彼は当初、徹底した南朝方として薩摩守護に任じられるなど活躍しましたが、足利尊氏の調略や一族内の家督争いに直面。家の存続と所領支配のために、生涯を通じて南朝と北朝への帰順を繰り返しました。この彼の行動は、阿蘇氏が神官から在地領主(武士団)へと変貌し、実利を優先せざるを得なかった時代の苦境を象徴しています。
》阿蘇 第17代阿蘇大宮司
生没年不詳。阿蘇惟時の嫡男であり、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての阿蘇大宮司です。
父惟時が上洛する前に家督と大宮司職を継ぎ、元弘の乱(1333年)以降、徹底した南朝方として活動しました。彼は、阿蘇氏が神官から武家へと変貌した時代の最前線に立たされた人物です。
建武3年/延元元年(1336年)、足利尊氏が九州へ下向すると、南朝方の武将菊池武敏らと共に筑前国・多々良浜で迎え撃ちました。しかし、この多々良浜の戦いで敗北し、若くして討死するという悲劇的な最期を遂げました。
惟直の戦死は、父惟時が隠居から復帰し、阿蘇氏がその後の数十年にわたる南北朝の動乱で、一族内の分裂と宗家の立場が揺れ動く原因の一つとなりました。彼は、武士団としての阿蘇氏の運命を左右した、激動の時代の象徴的な武将です。
》阿蘇惟村 北朝方阿蘇大宮司
惟時が大宮司に復帰した後、自身の養子として後継者に定めた人物です。また、彼は南朝方として活躍した阿蘇惟澄(これずみ)の長男でもありました(非常に複雑な親子関係です)。
大友氏時の推挙により室町幕府(北朝方)から支持され、肥後国守護にも任じられました。惟時の隠居後、大宮司の地位と所領を引き継ぎましたが、実父の惟澄や弟の惟武ら南朝方と激しく対立しました。
足利義満→義持の時代ですね
》阿蘇惟武 南朝方阿蘇大宮司
阿蘇惟澄(恵良氏)の次男で、惟村の弟にあたります。南朝方の懐良親王により、大宮司に任じられることで兄弟による内紛が激化する。最終的に、今川了俊(九州探題)との蜷打の戦い(1377年)で討死しました。
》阿蘇惟郷 北朝系阿蘇大宮司
阿蘇惟郷(あそ・これさと、? - 1470年)は、室町時代前期から中期にかけての武将。南北朝の動乱で分裂した阿蘇大宮司家において北朝系宗家の当主を務めました 。惟村さんの子だね。
応永13年(1406年)5月に父の惟村から家督と大宮司職を継ぎ、父の死後、九州探題(渋川満頼)や4代将軍・足利義持から職を安堵される。
この時期、支流の惟政・惟兼系統(南朝系)との家督争いが激化しましたが、応永24年(1417年)に室町幕府の御教書により大宮司職を公認されたことで、大規模な武力衝突は回避されました 。しかし、その後も争いは訴訟沙汰として継続し、晩年まで苦しめられたと言われます 。
永享3年(1431年)には阿蘇社の規則を定め、同年6月に子の惟忠に家督を譲りました 。惟郷は、特筆される軍事行動は少ないものの、分裂した阿蘇氏の権威を幕府体制下で確立し、宗家を存続させた調整役として重要な役割を果たしました 。
》阿蘇惟政 北朝系阿蘇大宮司
阿蘇惟政(あそ・これまさ、生没年不詳)は、室町時代初期の武将で、南朝方として討死した阿蘇惟武の子です。彼は、南北朝の動乱後に分裂した阿蘇大宮司家において、南朝系の正統な継承者として、その地位を生涯にわたり主張しました。
対立する北朝系の宗家、阿蘇惟郷やその子惟忠らが室町幕府の公認を背景に大宮司職を掌握する中、惟政はこれに強く抵抗しました。応永年間(1394-1428年)頃に家督争いが激化し、北朝系が幕府の御教書(1417年)を得て武力衝突こそ回避されましたが、惟政側はこれ以後も訴訟や政治的対立を通じて抵抗を継続しました。
彼は、父の代から続く征西将軍府を後ろ盾として、阿蘇氏の神官としての正統性を掲げ、北朝系宗家の勢力拡大を妨げ続けました。この惟政の系統と、北朝系の宗家との対立は、子の阿蘇惟兼の代まで持ち越され、阿蘇氏の分裂構造を長期化させる要因となりました。
参考資料
- 阿蘇氏大系図(PDF)


