元田永孚
元田永孚
もとだながさね
元田永孚は、熊本藩出身の儒学者であり、明治政府では宮内省に仕え、明治天皇の教育に尽力しました。横井小楠に師事し、儒学を学びます。宮内省では天皇側近として侍補職を設置するなど、天皇親政を推進しましたが、藩閥勢力との対立により失敗。その後も「幼学綱要」の編纂や教育勅語の起草など、日本の教育に大きな影響を与えました。教育者としてだけでなく、政治家としても活躍し、藩閥政治を批判するなど、明治維新後の日本社会に大きな足跡を残した人物です。
元田永孚の生涯
元田永孚は、熊本藩士の子として生まれ、幼少期から儒学を学びました。藩校時習館で横井小楠に師事し、実学党の一員として藩政改革に携わります。しかし、藩内の対立や幕末の動乱の中で、一時的に実学党から離れる時期もありました。
明治維新後、元田は藩主の侍読となり、その後宮内省へ出仕。明治天皇の侍読となり、天皇の教育に尽力しました。天皇親政を推進し、侍補職を設置しますが、藩閥勢力との対立により失敗。その後も教育勅語の起草など、日本の教育に大きな影響を与えました。
元田は、儒教に基づいた天皇中心の国家を目指し、教育を通じて国民の忠誠心を高めることを目指しました。しかし、明治政府の近代化政策の中で、その思想は次第に受け入れられなくなっていきます。
晩年は宮中顧問官、枢密顧問官を務め、天皇の信頼厚く、教育勅語の起草などにも関わりました。しかし、明治政府の近代化の方向性は、元田の理想とは異なるものでした。
元田永孚は、激動の時代を生き抜き、儒学者、宮内官僚、教育者として様々な役割を果たしました。彼の思想は、現代においても、日本の教育や政治を考える上で重要な示唆を与えてくれます。
関連スポット
サクラマチクマモトの地下通路にある、元田永孚の誕生の地。
元田永孚先生誕生地碑
碑文の解説 碑文の内容 明治の功労の人は多いが、特に文動第一とい われる人は元田永字先生である。先生は文政元 年(一八一八年)十月一日熊本城下山崎町に生 まれる。安政五年家督を継いで大目付の騒 我行となった。明治元年城東大江村(新屋敷) に転居するまで、五十年間の住まいであった。 明治四年藩主に呼ばれて上京する。知友の薦め によって明治五年明治天皇の侍講(講後)を二 十年にわたり誠心誠意つとめた。特に敦夜物語 (道徳教育の大本)の発布に尽力した。 明治二十四年一月二十二日没十,年七十四歲 前日、男を授けられる、本県教育会は (時)の臣蔵(えてなくなる)を恐れ碑 を建て行を称え長くをしたい歌う) する居所とする 略歴と業 文政元年,修本藩士元田三左衛門の長男とし てこの山崎町に生まれ十一歳で本校時習 目に学ぶ。を変の横井小橋,家老米田是容と共 に実学(本館)の一人である。 明治四年(一八七一年)五十国後の時、後主 の川のによって、明治天昼のほと なり二十年にわたり天皇への進を行った。将に功績顕著なるものは教育面の働きである。 「教学要旨」の起草、「幼学編要」の編喜、最大 の功績は「教育動語」の起草である、わが国数 育の基本となっていた。明治二十四年一月二十 一日男爵授与される。二十二日永眠、七十四歳。 熊本県近代文化功労者。 誕生地碑の設置・経緯 昭和十四年、座本県教育会は肥後の偉人元田家 学先生の偉業を称え後世に激し感動と を促すため再市御本市局内に誕生 地碑を建立 昭和二十四年、戦争による空で本庁會燒 失,同地事变局跡地に県庁者版設、碑は南侧 に設置 期向四十八手、町・花周辺地区周知により、 周本交通センター横、若田屋伊勢行ショッピ ングセンター(後,朝民百貨店)南に設置 平成二十七年,可再開のたの 合白元年九月,桜町再開発ビル地下 に(全体は大きく書上設置でト 碑文のみ)は黒御影石のプレート この神は丸産業をるホールディングスの 全面的支援によって再生した、ほく感のきを 表したい。 NPO法人熊本教育会
元田永字先生誕生地碑
明治ノ功臣甚ダ多シト雖モ就中文勲第一卜 稱セラルル者ヲ吾が元田永孚先生ト為ス先 生八文政元年十月一日熊本城下山崎町二生 儿安政五年家督ヲ繼ギテ大目付ノ職ヲ奉ジ 後屋累進シテ側用人兼奉行卜為ル而シテ此 ノ地八明治元年城東大江村二隠棲スル二至 ルマデ先生五十年間ノ居宅ナリ明治三年再 ビ廬ヲ出デ明年藩公二召サレテ上京ス先生 既二西歸ノ志アリ偶知友先生ヲ 明治天皇 ノ侍講二推サント欲ス固絆スレドモ可カズ 五年五月宮内省出使ヲ拝命シ爾來二十年蹇 蹇匪躬啓沃輔導ス若シ夫し 勅語發布ノ獻 替二至リテハ敢テ贅スルヲ須キズ二十四年 一月二十二日没ス年七十四前日特二華族二 列シ男爵ヲ授ケラル本會邸阯ノ湮滅ヲ虞し 碑ヲ建テ聊カ先生ノ行歴ヲ書シテ以テ長へ 二 景仰スル所アラシム 昭和十四年二月 熊本縣教育會 令和元年九月 (建替)熊本教育振興会
関連情報
生没年月日
生:文政元年10月1日
没:明治24年1月22日
別名
名は「えいふ」ともいう。幼名は大吉。通称は伝之丞、八右衛門。雅号は東野。字は子中。号は東皐、樵翁。
関連人物
元田永孚年表
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