

サクラマチクマモトと地下通路の接続部分に、「元田永孚誕生地」。熊本城のすぐお膝元、こんな場所に誕生地碑があるのだから、さぞや立派なご身分だったのだろうと、まずはこの文章を読んでみた。見るからに堅苦しい文章だったので、頑張って自分なりに文章を丸くしてみた。ので、私の無知から間違いがあるかもしれないので、原文も併記するね。
元田永孚先生誕生地碑 概要
明治の教育の第一人者、元田永孚先生は文政1年(1818年)に熊本城下で生まれました。安政5年(1858年)から明治元年(1868年)までをこの地で過ごし、明治5年(1872年)からは明治天皇の侍講を20年間務めました。
その間、教育勅語などの特筆されるべき功績を称えるため、この地に誕生地碑が建てられ、元田永孚の足跡を伝える大切な場所となっています。(原文は関連スポットにて)
元田永孚の生涯
碑文の情報なども含めて、色々リサーチしました。
元田永孚は、幕末の文政元年(1818年)に熊本藩士の家に生まれ、幼少より熊本藩校の時習館で学び、儒学の素養を深めます。
同郷の思想家である横井小楠の実学思想からも影響を受けたとも伝えられています。
明治維新後の明治4年(1871年)、50歳を過ぎてから宮内省に出仕。明治天皇の侍講、そして侍補という重責を担うことになります。以後約20年間にわたり、天皇の最も身近な教育係、そして相談役として仕えました。激動の時代にあって、彼は伝統的な儒教道徳を重んじながら、近代国家の君主としての帝王学を天皇に教授したのです。
元田永孚は、近代日本の教育のあり方にも深く関わりました。西洋文明の導入が進む中で、道徳教育の確立が不可欠と考え、明治12年(1879年)には教育の基本方針となる「教学大旨」の起草に参画し、儒教道徳の復興を主張しました。さらに明治15年(1882年)には、国民向けの教科書となる『幼学綱要』を編纂・刊行。そして、彼の思想が最も色濃く反映されたとされるのが、明治23年(1890年)に発布された教育勅語です。その起草過程で中心的な役割を果たし、日本の教育思想に大きな影響を与えました。
教育の分野だけでなく、宮中顧問官や枢密顧問官として国家の意思決定にも関与。藩閥政治家や急進的な欧化主義者に対しては、天皇親政の立場から度々批判を行い、自身の信念を貫きました。晩年まで日本の将来を案じながら、明治24年(1891年)に74歳でその生涯を閉じています。
元田永孚 さんを知って
元田永孚は、明治天皇から絶大な信頼を得ており、「父親のように慕われた」と評されるほど、深い師弟関係、あるいは親子のような情誼があったと言われています。これは、彼が単に学問を教えるだけでなく、人間性においても天皇を惹きつける何かを持っていたことを示しているでしょう。
また、彼は近代日本の教育・思想形成において独自の重要な位置を占める人物です。特に、天皇を頂点とする国家体制における道徳教育のあり方を深く追求し、儒教道徳に基づいたその教育理念は、「教学大旨」や教育勅語といった形で具現化され、戦前の日本社会に強い影響を与えました。
一方で、藩閥政治家などへの批判も辞さない、強い信念を持った政治家としての側面も持ち合わせていました。自身の理想とする天皇親政の実現を目指し、困難な状況でもその主張を曲げなかった姿勢は、彼の揺るぎない忠誠心と責任感の現れと言えるかもしれません。伝統を重んじつつ、新しい時代の君主にあるべき姿を真剣に追求した、まさに「賢人」と呼ぶにふさわしい人物だったと言えるでしょう。
関連スポット


元田永孚先生誕生地碑
碑文の解説 碑文の内容 明治の功労の人は多いが、特に文動第一といわれる人は元田永孚先生である。先生は文政1年(1818年)10月1日熊本城下山崎町に生まれる。安政5年家督を継いで大目付の騒我行となった。明治元年城東大江村(新屋敷)に転居するまで、50年間の住まいであった。明治4年藩主に呼ばれて上京する。知友の薦めによって明治5年明治天皇の侍講(講後)を20年にわたり誠心誠意つとめた。特に敦夜物語(道徳教育の大本)の発布に尽力した。明治24年1月22日没、年74歳。前日、男爵を授けられる。本県教育会は(時)の臣蔵(えてなくなる)を恐れ碑を建て行を称え長くをしたい(歌う)する居所とする。
略歴と業績
文政1年、熊本藩士元田三左衛門の長男としてこの山崎町に生まれ11歳で本校時習館に学ぶ。を変の横井小楠、家老米田是容と共に実学(本館)の一人である。明治4年(1871年)50国後の時、後主の川のによって、明治天皇のほととなり20年にわたり天皇への進を行った。将に功績顕著なるものは教育面の働きである。「教学要旨」の起草、「幼学綱要」の編纂、最大の功績は「教育勅語」の起草である、わが国教育の基本となっていた。明治24年1月21日男爵授与される。22日永眠、74歳。熊本県近代文化功労者。
誕生地碑の設置・経緯
昭和14年、熊本県教育会は肥後の偉人元田永孚先生の偉業を称え後世に激し感動と奮起を促すため新市役所熊本専売局内に誕生地碑を建立。
昭和24年、戦争による空襲で熊本県庁舎焼失。同地専売局跡地に県庁舎仮設。碑は南側に設置。
昭和48年、桜町、花畑周辺地区開発により、熊本交通センター横、岩田屋伊勢丹ショッピングセンター(後・県民百貨店)南に設置。
平成27年、桜町再開発のため撤去。
令和1年9月、桜町再開発ビル地下設置(碑全体は大きく耐震場設置できず碑文のみ)。碑文は黒御影石のプレート。
この碑は九州産業交通ホールディングス(株)の全面的支援に寄って再生した。深く感謝の意を表したい。
NPO法人熊本教育会
元田永孚先生誕生地碑
明治ノ功臣甚ダ多シト雖モ就中文勲第一卜稱セラルル者ヲ吾が元田永孚先生ト為ス先生八文政1年十月一日熊本城下山崎町ニ生ル安政5年家督ヲ繼ギテ大目付ノ職ヲ奉ジ後屋累進シテ側用人兼奉行卜為ル而シテ此ノ地八明治1年城東大江村二隠棲スルニ至ルマデ先生50年間ノ居宅ナリ明治3年再ビ廬ヲ出デ明年藩公二召サレ上京ス先生既二西歸ノ志アリ偶知友先生ヲ明治天皇ノ侍講二推サント欲ス固絆スレドモ可カズ5年5月宮内省出使ヲ拝命シ爾來20年蹇蹇匪躬啓沃輔導ス若シ夫し勅語發布ノ獻替二至リテハ敢テ贅スルヲ須キズ24年1月22日没ス年74前日特二華族二列シ男爵ヲ授ケラル本會邸阯ノ湮滅ヲ虞し碑ヲ建テ聊カ先生ノ行歴ヲ書シテ以テ長へ二景仰スル所アラシム
昭和14年2月 熊本縣教育會
令和元年9月(建替)熊本教育振興会
関連情報
元田永孚年表
年 | 出来事 |
---|---|
1818年(文政元年)10月1日 | 熊本城下山崎町に生まれる(熊本藩士 元田三左衛門の長男) |
(時期不明)11歳頃 | 熊本藩校 時習館に学ぶ |
(時期不明) | 横井小楠、米田是容らと共に実学党の一人となる |
1858年(安政5年) | 家督を継ぎ、大目付となる(以後、累進し側用人兼奉行となる) |
1868年(明治元年) | 城東大江村(新屋敷)へ転居する(山崎町には約50年間居住) |
1870年(明治3年) | 一時隠棲(隠居) |
1871年(明治4年) | 藩公に召されて上京(50歳) |
1872年(明治5年)5月 | 明治天皇の侍講を拝命 |
1872年〜1891年(明治5年〜明治24年) | 20年間にわたり明治天皇の侍講を務める。教学要旨の起草、幼学綱要(敦夜物語)の編纂・発布に尽力。教育勅語の起草など、教育分野で顕著な功績を挙げる |
1891年(明治24年)1月21日 | 男爵を授与される |
1891年(明治24年)1月22日 | 死去(享年74歳) |
(没後) | 熊本県近代文化功労者とされる |
誕生地碑 | |
1939年(昭和14年) | 元田永孚先生の偉業を称え、旧市役所/熊本専売局内に誕生地碑が建立される |
1949年(昭和24年) | 戦災による県庁舎焼失後、同地専売局跡地に県庁舎仮設。碑は敷地南側に移設 |
1973年(昭和48年) | 桜町・花畑周辺地区開発により、熊本交通センター横へ移設 |
2015年(平成27年) | 桜町再開発のため一時撤去 |
2019年(令和1年)9月 | 桜町再開発ビル地下に碑文プレートとして再設置 |