松井氏
松井氏
八代城主・細川家家老として熊本を支えた松井氏についてざくりまとめる。戦国時代に活躍する松井康之という人物は清和源氏満政流の子孫で、室町時代も足利の幕臣として仕える。その関わりで細川藤孝とともに、足利義昭を擁立し次第に細川藤孝の下で働くようになった。松井康之は細川家の家老として名を馳せ、上杉の直江、三成の左近などと並べられるほどの人物だったらしい。秀吉が大名に取り立てようとしたのを遠慮した所が評価されたんじゃないかと思うのだ。慶長16年に家督を継いだ松井興長は、加藤忠広が改易された直後は玉名に知行を得る、また八代城に隠居していた細川忠興の没後、松井興長が八代城を預かる形となる。興長は忠興の息子を養嗣子として迎えて、幕末に至る。
1.松井康之(1550-1661)
松井康之は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。細川藤孝に仕え、その後も忠興に仕え、関ヶ原の戦いでは豊後杵築城を守り抜くなど、数々の武功をあげました。特に、関白秀次の謀反連座の疑いを晴らしたり、関ヶ原でも活躍する。武人としてだけではなく、茶人としても優れていた。戦国時代・安土桃山時代随一のチート武将である細川藤孝をチート級に支えてた人物なんだね。(松井康之:Wikipedia)
2.松井興長(1582-1661)
細川家の重臣・松井康之の息子。関ヶ原の戦いや島原の乱など、数々の戦役を経験し、細川家4代の当主に仕えた。特に、肥後熊本藩に転封後は、藩政に尽力し、晩年には浪費癖のある若き藩主を諌めるなど、家臣としての忠誠心を貫いた。八代城を預かり、松井家は代々八代城主を務めた。多くの史料や美術品が熊本県八代市の松井文庫などに現存し、その生涯は細川家と深く結びついた歴史として今に語り継がれている。(松井興長:Wikipedia)
3.長岡(松井)寄之(1616-1666)
細川忠興の子(六男)で長岡(松井)興長の養嗣子。松井氏は細川家の筆頭家老だったが、藩祖忠興の子に松井氏を継がせる。自分の血筋より主家の血筋を継がせたのかねぇ。細川家から派遣されてきたのが澤井という家臣で今も八代城の近くに住宅とその長屋門が残っている。資料によると天草・島原の乱ににも参加してたみたいだね。宮本武蔵の最期を見守っったとかそういう情報はあるけど、家老としての振る舞いってよくわからん。元和 2 年(1616)細川忠興の六男として生まれ、元和 7 年(1621)、松井興長の養子となる。寛永 11 年(1634)から家老として藩政に従事。寛文元年(1661)家督相続し、八代城主となる。
4.長岡(松井)直之(1638-1692)
彼の生母・崇芳院尼のために建てた茶屋が「松濱軒」。しかしそれ以外の自責はよくわからない
5.長岡(松井)寿之(1668-1745)
寛文 8 年(1668)に生まれる。元禄 5 年(1692)家督相続し、八代城主となる。和歌や茶の湯をよくたしなみ、松井文庫に書や和歌が残る。
6.長岡(松井)豊之(1703-1771)
調査中
7.長岡(松井)徴之(1737-1808)
調査中
8.長岡(松井)督之(1796-1840)
調査中
9.長岡(松井)章之(1813-1887)復姓
参勤交代のときにしたためた「参府日記」がのこされている。これって松井氏は細川家の筆頭家老でありながら徳川幕府の直参なので、参勤交代があったんだねぇ。
10.長岡(松井)盈之(1843-1916)復姓
幕末で苦労した御家老様ということしかわからない。調停に対し蒸気船「龍驤艦」を献上することを人吉藩に連絡した書状が遺ってたりする。
11.松井敏之(1865-1935)
調査中
12.松井明之(1899-1986)養子
調査中
13.松井祥之(1923-1982)
調査中
14.松井葵之(1796-1840)
調査中