赤穂事件と肥後細川藩

「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士は、討ち入りの後、大石内蔵助をはじめとする十七名は、細川藩の預かりとなり、肥後藩江戸下屋敷で切腹しました。彼らの遺髪は、山鹿市の日輪寺に納められ、現在も毎年2月4日に義士まつりが行われています。

赤穂義士と細川藩

吉良邸への討ち入り後、幕府は赤穂浪士を、細川家をはじめとする複数の藩に預けました。その中で、細川藩は赤穂浪士を温かく迎え入れ、特に藩主の綱利公は義士たちを「武士の鑑」と称賛しました。細川藩邸では、義士たちはまるで賓客のように扱われ、質素な生活を送っていた浪人時代とは対照的な日々を過ごしました。

堀内伝右衛門と日輪寺

細川藩の義士接待役を務めた堀内伝右衛門は、義士たちに深い敬意を抱き、彼らの最期を看取りました。そして、義士たちの遺髪を預かり、故郷の山鹿市にある日輪寺に葬りました。以来、日輪寺は赤穂義士を祀る場所となり、堀内一族は代々、義士を供養してきました。

日輪寺に伝わる義士の魂

日輪寺には、義士の遺髪塔が建立され、毎年2月4日の義士の命日には「義士祭り」が行われています。また、境内には大石内蔵助の像も建てられ、訪れる人々に義士たちの忠義の心を伝えています。

山鹿市と赤穂市のつながり

日輪寺と赤穂義士の深い縁から、山鹿市は兵庫県赤穂市と姉妹都市提携を結び、毎年開催される「忠臣蔵サミット」にも積極的に参加しています。さらに、山鹿市は「義士親善友好都市交流事業」にも加盟し、他の自治体と連携して忠臣蔵の精神を後世に伝えています。

山鹿素行と大石内蔵助

興味深いことに、大石内蔵助は、儒学者であり兵学者の山鹿素行に兵学を学んだと言われています。山鹿素行の名を冠した「山鹿流陣太鼓」は、大石内蔵助が討ち入りの際に使用したと伝えられています。

泉岳寺と切腹した肥後藩下屋敷

参考サイト

幸 平和..No.042 「 忠臣蔵と肥後 」.くまもとっと
https://kumamoto.guide/look/terakoya/042.html

参考文献

著者(2000).見出し.『書籍名』.頁