加藤正方 - 加藤家家臣
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加藤正方 について
生年月日:天正8年(1580)
没年月日:慶安元年(1648)11月8日
加藤正方 は熊本藩加藤家の家老として内牧城代、八代城代などを歴任する家老職。加藤清正公が亡くなり、若年の藩主・忠広を支え、時には藩政の派遣争いがお家騒動になってしまったりする。大地震で崩壊した八代のマチを立て直しながら、忠広の改易で職を失う。その後は京都で隠棲しながら、大阪の相場で距離を得たりしている。どうも武将といいながらも、文官的素養が高かったように思える。自由な隠棲も10年ほど。広島藩浅野家の預かり、つまり監視下に置かれてしまう。
加藤正方 の生涯
加藤可重 の子
加藤正方 は天正8年に加藤可重の次男として生まれる。ちなみに加藤可重は加藤清正の重臣。しかも、このとき加藤清正は二十歳にもならないくらいで、播磨で120石知行してもらっている。おそらくだが、父の加藤可重も加藤清正にまだ仕えていなかったんじゃないか思うのだが、ご存じの方がいたら教えてほしい。
長男の重正が討ち死にして、一旦、従兄の加藤重泰(正方の姉か妹の夫でもある)が家督を相続した後に、正方が相続した。
相続して、内牧城代となったのが、慶長年間の中頃とされている。
八代城代として
時は流れ、藩主・清正公が亡くなり忠広が後を継ぐと、江戸幕府は様々な9か条の掟書によって、藩政に干渉するようになる。そのひとつに「支城主の人事と重臣の知行割は幕府が行う」というものがあり、慶長17年(1612)に麦島城代に任じられる。同様に藩政も重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人となるなどなんとなく加藤家には暗雲が垂れ込んでくる。
そんななか、当の正方を含む重臣たちによるお家騒動「牛方馬方騒動」が起こり、幕府に露見し、ときの将軍・徳川秀忠によって裁かれることになる。
元和4年(1618)、この騒動に勝利し、正方は藩の筆頭家老となる。元和5年に大地震で麦島城が崩壊すると、忠広の命で松江城を築く。当然、松江城代の職にも就く。大地震後の築城はまちづくりそのもので、現在の八代市中心部の原型は正方の采配に夜ものと言えよう。
寛永9年(1632)広忠が改易となり、彼は隠棲することになる。
その後の加藤正方
正方は、京都の本圀寺に隠棲する。隠棲先では西山宗因(旧家臣・八代出身の連歌師)と連歌の著作物を作ったり、大阪の米相場で大儲けしたりしている。この人って、官僚タイプなのだろう。
寛永20年(1644)になって、広島藩浅野家の預かりのみとなる。ようするに監視下に置かれたわけだ。そのまま慶安元年(1648)広島にて69歳の人生を閉じる。お墓は妙風寺(広島市)にある。この妙風寺は正方自身が、筆頭檀家となって建立されたもので、清正公の像もある。