瀬田神社(大津町)

瀬田神社 について

1570年頃の創建と伝わる神社で、大津町の豊かな田園風景の中でも桜の美しい場所だったのだが、熊本地震で、崖から巨石が落下して拝殿を破壊してしまったという。復興した拝殿の傍らには巨石が記憶として遺されている。
これは、熊本地震ミュージアムとしても登録されている。

名水と巨石と桜と疎水の名所。ぜひ楽しんでほしい。

世界かんがい施設遺産に認定されている、上井手用水のほとりにご鎮座せらるる瀬田神社。1570年ころの創建と伝わっている。

何でも八代の妙見様を勧請したというのだから、正式には、瀬田妙見神社と呼ぶのが正式である気がする。疎水を渡る橋も妙見橋と呼ばれる。

一方で変額には瀬田神宮と書かれている。

加藤清正によって井手が造られ、田畑が拓かれて、人々の暮らしもずいぶんと変わったんじゃないかと思われる。

瀬田神社 の概要

由来板によると。

割子の水と甲石(瀬田神社)

瀬田割子

合志郡(現治郡南部)には、古く「合志七水」と呼ばれる水源があったとされ、その一つである「阿蘇大明神が割子(弁当)を使った」 場所、「割子の水」 がこの辺りにあったとされています。上井手の畔にひっそりと佇む瀬田妙見神社には湧水が湧き出ています。

この地は古くは阿蘇郡に属していましたが、平安前期貞観元年(859) に合志郡に編入され、下って戦国期元亀(1570)の頃、合志氏が阿蘇・大友氏に備えるに当たり、その場として八代宮地村(現八代市)の妙見神社を勧請しました。神は天之御中主神と美都波能売神です。

妙見とは、北極星(北辰)に擬せられた妙見菩薩で、北辰を祭る仏教的な信仰として平安初期に流行しました。天之御中主は神道上、妙見に当てられた神です。美都波能売神は、割子の水を守る水の神でしょうか。

妙見橋が架かるのは上井手です。江戸後期弘化4年(1847) には、ここから大津手永庄山隈権兵衛の手配で2隻の川舟が大津まで下ったとあります。イベントだったのでしょうが、当時の光景がしのばれます。

用語解説

手永とは

手永(てなが)とは、江戸時代に肥後藩(現在の熊本県)で採用されていた地方行政制度。
領内を数ヶ村〜数十ヶ村程度にまとめた行政区画。大庄屋あるいは惣庄屋と呼ばれる責任者が置かれた。

また、ここから南を流れる白川を望むと、下井手の堰に乗り掛かる様に巨岩が屹立しています。「合志川芥」には、往古に阿蘇大明神が巡回のときに、冑を脱いで投げたところ、この石になったといいます。付け加えると、鎧石は、南郷俵山の西の坂の途中にあるそうです。

一説には、加藤清正が下井手堰をここに移し、この大石の頂に冑を被せて、「願わくはこの場が動くことのないようお守りください。」と祈ったので、このことから甲石というようになったとも言われています。

太古に白川の激流が仕上げた造形でしょうが、下井手は、この石によって分流される水をうまく取り込む構造になっており、清正の着眼の良さを感じさせる史跡といえるでしょう。

平成20年3月20日 大津町教育委員会

大津町震災遺構 “瀬田神社と巨石”

瀬田神社は 1570年頃に建てられたと伝えられており、古く から域の憩いの場として、この地にありました。

2016年の熊本地震により、北側の崖から巨石が崩落し、 神および殿が倒壊しました。瀬田地区の住民は、神社全壊の事実に心を痛めながらも再興に向け知恵を出し合い、絆の力で再建を果たしました。巨石は後世に熊本地震の恐ろしさとそれ を乗り越えた地域の絆を伝えるため、そのまま残しています。

また、2月から4月にかけて境内のオガタマノキとサクラが 入れ替わりに咲き、訪れる人の目を楽しませています。北側の産から湧き出る水は、「合志七水」の一つ「割子水」と呼ばれ、 熊本地震の際も枯れることなく、今も地域の人々ののどを潤し ています。

疎水百選

上井出川・平成18年2月に認定

上井出は元和4年(1618年)加藤忠広が加藤清正より引継ぎ、水路の開削に着手、その後 寛永14年(1637) 細川忠利に引継がれ、19年の歳月を要して開削された。

これにより334haの美田が開かれ水車を利用した製材所、精米所等に利用されるなど大津町、菊陽町の経済発展に寄与しました。

現在でもこの上井手の水は大津町、菊陽町382haの水田を潤すと共に、人々の生活の中にも重要なものとなっています国民の共有の資産である疏水を守り次世代へと継承してゆきたいものです

肥後瀬田人の会

瀬田神社 ギャラリー

瀬田神社 へのアクセス

  • 交通
    交通機関では厳しいかも
  • 所在地
    〒869-1214 熊本県菊池郡大津町瀬田
  • 駐車場
    道路脇に水くみ場があって一台ほど駐車ができる