貝洲加藤神社(八代市鏡町)

貝洲加藤神社

八代市鏡町にご鎮座する。

貝洲加藤神社 を取材した。宮司さんと禰宜さんが熱心に神社の歴史を教えてくださった。
八代平野の3分の2は干拓地だ。その干拓の父というのが、惣庄屋・鹿子木亮平・謙之助親子。
その労苦たるや想像を絶するものだったろう。

貝洲加藤神社 の 御由緒 について

御由緒に関する資料がいくつかあったので、宮司さん禰宜さんにもいろいろお話をきいたので、とりあえず纏めてみました!

創建は文政5年 勧請したのは鹿子木量平 翁

鹿子木亮平 翁は19世紀初頭江戸時代末期の文化年間に惣庄屋として着任した野津手永は「御国一の貧地」と呼ばれる地域だった。(鹿子木親員:寂心さんの子孫らしい)

なので、地域の生産力を向上させるために「干拓」して田畑の面積を広げて、収入UPを計画したわけだ。

御祭神:加藤清正 公の背景

文化2年に 鹿子木量平 翁はこの大事業に着手することになるのだが、この際、翁は崇拝する 清正公 の霊廟に「大願成就のあかつきには新地の氏神様として勧請し永世に御祀り申し上げる」と願を掛けていた。

熊本城を築城し、鼻ぐり井手などを指導し、肥後の生産力を引っ張り上げてくれた 加藤清正公なので、細川氏も清正公のことは結構大事にしてたみたい。

それから文政5年にかけての17年の内に百町、四百町、七百町と三つの新地を干拓したのだ。

清正公 を本妙寺から 勧請

無事干拓できたので約束通り、文政5年9月22日に、当時祀られていた本妙寺を出発した清正公の神霊を奉じた神輿は、同月24日に神殿に御鎮まりになった。

当時は神仏習合だったので、今の熊本城の加藤神社はなかったし、お寺から神社に御霊が引っ越してもOKだったんだろう。

自然、貝洲加藤神社 は神仏習合時代の薫りが今も残る神社ではある。また、当時新しい社寺の建立は禁止されていたが、藩主・細川斎茲 公が特別に許可して土地を下賜したそうだ。『侍屋敷の鎮守』の邸内の産土神として勧請された。(誰の邸内なの?)

末社の貝洲神社はもともと近所の貝洲神社だった

意味がわからないかもしれない。貝洲加藤神社には末社として市杵島比売命を御祭神とした末社が境内にあるが、これは50m東にある貝津神社をご遷座させたものらしい。

ただ、御遷座がうまく行かなかったとか神仏習合とかと関係があるとかないとかで、元の場所にも貝洲神社は御鎮座している。ちなみに、この末社としての貝洲神社の拝殿は境内内で最も古い創作物とのこと。もう一つの和合神社は、文政5年に綿津見神をお祀りしたと言われている。

由来板 による説明

御祭神:加藤清正公
 祭礼日:9月24日
 境内社:貝洲神社、和合神社
 由緒:当社は、安土桃山時代に活躍された加藤清正公(1562~1611)を祭神として御祀りしている。清正公は武勲の誉れとともに土木や灌漑治水にも手腕を発揮された方でもある。
 19世紀初頭江戸時代末期の文化年間に、御国一の貧地と云われた野津手永の惣庄屋に着任した鹿子木量平翁が、人民の困窮を救わんと新地開きを計画した時に、崇拝する清正公の霊廟に『大願成就のあかつきには新地の氏神様として勧請し永世に御祀り申し上げる』との願を掛けられ、工事に着工したことに由来する。
 量平翁は息子謙之助と共に、文化2年(1805)から文政5年(1822)にかけての17年間に、100町、400町、700町と三つの新地を次々と干拓する。
 文政5年9月22日に、渓玉院日珖上人以下僧や信者数十名に守られて本妙寺を出発した清正公の神霊を奉じた神輿は、同月24日に神殿に御鎮まりになった。当時新しい社寺の建立は禁止されていたが、藩主細川斎茲公の特別のお許しにより土地を賜り、『侍屋敷の鎮守』の邸内産土神として勧請された。明治3年には村社に列せられる。
 境内には末社として本殿向かって右に市杵嶋姫神を祀る貝洲神社と、向かって左の綿津見大神を祀る和合神社がある。
 また鹿子木量平翁は、鏡町両出にある文政神社の祭神として御祀りされている。

八代たてもの による説明

文化文政年間、 惣庄屋 鹿子木量平と息子・謙之助の尽力により、百町、四百町、七百町新地が完成。量平は治水など土木事業に秀でた加藤清正を尊崇し、新地完成の際には清正公を勧請するとの誓約の上であったので、1822 (文政5)年 に勧請。

新しい社寺の創立が禁じられていた当時、藩主・細川斉茲の計らいで当地を邸地とし、武家屋敷の鎮守として特別に勧請できた。

1870 (明治3)年に村社に列せられる。 1921 (大正10)年に本殿改修、拝殿・幣殿改築、 鳥居・神橋建設。 拝殿・幣殿は2006 (平成18)年に再改築。

直線の県道が参道となり、境内から離れた鏡町両出の交差点付近に大きな一の鳥居が立つ。

二の鳥居、 神橋を通り境内へ。神殿左右の境内神社のうち、右の貝洲神社は小さいながら、 飛龍の向拝の中備、ぶどうの丸彫の手挟、虎・獅子の妻飾、小壁の菊など見るものが多い。

本殿は入母屋妻入、向拝つきで銅板葺き。垂木鼻、破風尻、台輪、長押などに金物を多用する。長押金具には桔梗紋がつく。向拝では木鼻に獅子鼻・籠彫、手狭に菊の丸彫、中備に蛇の目紋の蟇股、すがる破風の降懸魚に桔梗が見られる。

身舎は組物を出組、中備を蟇股として蛇腹支輪をまわす。 正面建具は桟唐戸の両開戸、両側面を半蔀とする。

由来書 による説明

由緒書:貝洲加藤神社

御祭神 藤原朝臣清正公 (加藤清正公)御

祭神略歴

通称清正公さんの名で親しまれている加藤清正公は、永禄五年(一五 六二年) ~慶長十六年(一六一一年)に活躍された安土桃山時代の武将である。生まれは尾張(今の愛知県) 愛智郡中村であり幼名を虎之助と呼ばれ、幼少の頃より福島正則と共に豊臣秀吉に仕え、天正十六年(一 五八八年)に肥後の半国を与えられて熊本城主となられる。文禄慶長 の役(特に蔚山の戦いが有名)等で戦功をあげられ、関ヶ原の戦いの後、 肥後一国五十四万国の城主となられた。清正公は武勲の誉れだけではなく、築城、治水、干拓の名手としても名高く、熊本城の築城、名護屋城 設計はその代表である。また信仰心の厚い方であり、忠と義を重んじ慈 悲の情の深い方でもありました。

御鎮座由来

当社は、十九世紀初頭江戸時代末期の文化年間に、御国一の貧地と云われた野津手永の惣庄屋に着任した鹿子木量平翁が、人民の困窮を救わんと新地開きを計画した時に、崇拝する清正公の霊廟に『大願成就のあかつきには新地の氏神様として勧請し永世に御祀り申し上げる』との願 を掛けられ、工事に着手したことに由来する。量平翁は息子鎌之助と共に、文化二年(一八〇五年)から文政五年(一 八二二年)にかけての十七年間に、百町、四百町、七百町と三つの新地 を次々と干拓された。文政五年九月二十二日に、渓玉院日上人以下僧や信者数十名に守られて本妙寺を出発した清正公の神霊を奉じた神興は、同月二十四日に神殿に御鎮まりになった。当時新しい社寺の建立は禁止されていたが、藩主 細川斉茲 公の特別のお許しにより土地を賜り、『侍屋敷の鎮守』の邸内産土神として勧請された。明治三年には村社に列せられる。

末社

貝洲神社(御祭神 市杵嶋姫命)本殿向かって右の御社で、御祭神市杵嶋姫命は塩の神さま航海の神さまとして有名で、干拓前まだ此の処が海だった頃より海中の三洲に祀られていた市杵嶋姫命の石像は当社より五〇メートル程離れた場所に現在もそのまま祀られている。

和合神社(御祭神 綿津見神)本殿向かって左の御社で新地築造の竣工された文政五年境内地に海の神さまの綿津見神を祀られる。

特殊神事(御粥神事)

御粥神事は、一九二〇年(大正九年)に第二代宮司広松盛時が氏子崇敬者によって作られる水田物、陸田物が其の年の気候によりて不作とな るのを憂いて、農業の手助けをするべく、御幣によりて吉凶を占う神事 を執りおこなったのが最初である。 農業も多様の作物を作る様になり現在二十種類の農作物を占ってい る。毎年一月十五日午前五時より御垣内に於いて宮司以下神楽方が奉仕 、氏子崇敬者の作られる作物が豊かに向栄(むくさか)に成幸(なりさきは)う様に祈念している。 占い結果は氏子全戸に配布している。

伝統芸能 (肥後大神楽)

肥後神楽の起源は定かではないが、その伝統は古く、阿蘇家が国造として肥の国に勢力を得た頃にさかのぼる。大化の改新の際国造の職は廃 止されたが、肥の国の神主の統領として祖神を国内に播祀した。宮司舞として発祥した神楽も田作神事の様な特殊神事を通じ、農民との連繁を深からしめ其の数も増加し、さらに外来思想、仏教、陰陽道等の影響を 受け内容を豊かに神事芸能として、肥後神楽が祭礼の賑わいと共に庶民の間に普及するに至った。玉名、鹿本に於いても神楽と祭が密接な関係を保ち、神楽を通じて神社崇敬の念を表わす。肥後神楽は岩戸神楽とは没交渉ではないが、肥後独特の神楽であって優雅の中にも勇壮活発の舞 風を存し、楽風に於いても自ら身心を清浄の中に漂わしめ実に敬神の念を湧かしむるものである。また肥後神楽が今日の様な隆盛を極むるに至っ たのは、県下の各神社が社家神楽として神楽方を養成したに起因する。 当社に於いても明治十三年に第一期生を組織し、脈々とその伝統を後 世に伝え、古くは大宮神社、阿蘇神社、藤崎八幡宮に神楽を奉納する。 昭和四十五年には「肥後大神楽保存会」が結成され、日夜崇敬の念をもって奉仕されている。

祭事

春季大祭二月二十四日(祈年祭 豊作祈願祭)
夏祭七月二十四日(清正公御命日慰霊祭)
例祭九月二十四日

貝洲加藤神社 の 見どころ

参道と鳥居

今は県道となっている本来の参道。この両サイドが社領だったとすると相当豊かな神社だったのではなかろうか。

しかし実は境内に三の鳥居があった。天草陶石の石造りで、貝洲加藤神社の鳥居の中では最も古く、明治3年の神仏分離令以降に作られたものだった。元は一の鳥居だったが、平成28年の熊本地震にて損壊したため、非常に残念ながら安全性を考慮し同年に撤去したのだという。

拝殿・本殿

末社

準備中

境内のいろいろ

歴代宮司さん

初代
廣松輔周(すけちか)
明治3年〜明治29年

2代目
廣松盛時(もりとき)
明治29年〜昭和50年

3代目
廣松繁房(しげふさ)
昭和50年〜平成23年

4代目
廣松泰子(やすこ)
平成23年〜

貝洲加藤神社 の 御朱印

貝洲加藤神社 への アクセス

〒869-4223 熊本県八代市鏡町貝洲699

駐車場:10台くらい余裕