熊本城(熊本市中央区)
熊本城について
現在の熊本城は、現在の熊本市中央区に築かれた安土桃山時代から江戸時代の城。
別名は「銀杏城(ぎんなんじょう)」。熊本市民の誇りであり、シンボルでもある。
加藤清正 公によって築かれた平山城で中世城郭の千葉城などを取り込んで拡張されたお城。
加藤氏の改易後は熊本藩細川家の居城となった。
また、明治の西南戦争の戦場となり。加藤清正の築城技術が近代戦争である西南戦争でも通用したことは特筆すべき事。
残念ながら戦闘の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失してしまっている。
現在の熊本地震からの復活した天守は1960年に再建されたものが基本となっている。
熊本城の歴史
千葉城・隈本城(古城)
菊池一族の出田秀信が今の千葉城町に千葉城(1521〜1531年頃)を築き、鹿子木親員(寂心)が古城町に隈本城を築きました。
その後、城主は菊池義武(大友義鑑の弟)→城親冬〜城久基→佐々成政→加藤清正〜加藤忠広→細川家と受け継がれ、西南戦争を迎える。
熊本城へ
加藤清正の入城に伴い、千葉城・隈本城のある茶臼山全体に城を築き熊本城とした。これが現在の熊本城になっています。
宇土櫓などの現存する櫓・城門・塀13棟は国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。
天守閣内部は熊本市立熊本博物館の分館となっており、様々な展示がある。
2016年4月の熊本地震の際に、現存石垣をはじめ宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元・復興建築が被災した。
熊本城 の 見どころ
天守閣
大天守と小天守があり、写真は昭和35(1960)年に復元されたもので、石垣の上にどっしりと構える様子が見事。平成28年の熊本地震で被害を受け現在は回収された天守閣が博物館としても機能している。
未申櫓(未申三階櫓)
城彩苑から法華坂に登ってくると未申櫓がある。
奉行丸と呼ばれる曲輪の南西(未申)方向にそびえている。平成15年(2023)に復元されている。
1602年に完成し、当初は大黒矢倉と呼ばれていたことがわかっている。明治に入り鎮西鎮台の司令となった桐野利秋によってこの一帯は石垣ごと破却された。
その後、桐野は西郷隆盛を担いで、このお城に挑むのだが、結果は皆さんの御存知の通り。
馬具櫓
熊本城の南の入口を守る櫓。どうやら馬具を納めていたようだが確かな資料は残っていない。
かつては正面に下馬橋がかかっていたが、現在は下馬橋の代わりに、御行橋がかかっている。
加藤清正公銅像
現在の熊本城の原型を形作り、城下町熊本の基礎を作った加藤清正公の姿を高橋鎮雄氏によって再現したもの。
二の丸
二の丸広場は、上級家臣の屋敷が立ち並んでおり、時習館(藩校)が置かれていた。
時習館は6代目藩主細川重賢公によって開校している。
長塀
国指定重要文化財で、242mの一直線の長塀。加藤清正の時代には出入り口があったそうだが、細川時代に出入口を塞ぎ今のような形になったそうです。
坪井川 と 白川
坪井川と白川について
加藤清正は熊本城を新しく築城と同時に、城下町づくりにも着手。
お城の付近で蛇行して今の市役所辺りに流れていた白川をまっすぐに伸ばし、合流していた坪井川をお城の堀として、現在の流れとして分けた。
結果的に坪井川は、熊本城を囲むように流れる。そして、熊本駅方面に流れ、白川と並行するように、加藤清正 は二つの川が合流しないように石塘を作った。
現在も森都心プラザ裏手にその石塘の跡が残っている。
アクセス
- 所在地
〒860-0002 熊本県熊本市中央区本丸1−1 - 駐車場
二の丸公園の有料駐車場が最寄り
有料駐車場は周辺に山程ある - 営業時間
9:00~16:30 / 不定休