霜野日吉神社 と 六地蔵(山鹿市)

霜野日吉神社 と 六地蔵

Shimono Hiyoshi Shrine

霜野日吉神社 について

霜野日吉神社 は 康平寺 へと続く55号線沿いにご鎮座している。どうも比叡山を手本にしたような神仏混淆の集落だったようで「近江坂本(比叡山がある地域)の日吉神社を勧請したんじゃないか説」が有力。

公孫樹の紅葉や重要文化財で人気上昇中の康平寺へ訪問した折は是非、一緒に散策して欲しいところでもある。

霜野日吉神社 ギャラリー

神社の遠景と明神鳥居とその扁額。鳥居は大正九年に作られている。扁額は凝った模様が彫られている。

拝殿の軒下にぶら下がっているのは、雨乞いで使ったと思われる「大太鼓」。拝殿の扁額には「山王宮」と掘られているが、日吉神社は明治以前の神仏混淆の時代においては、日吉山王宮だとか、山王権現宮と呼ばれている。社殿は宝永7年(1710年)に建てられている。

拝殿の裏の急峻な斜面に本殿がある。

釈雙圓の「康平寺延寿院坊舎略記」の記述によれば、近江坂本の日吉大社と同様に、上七社、中七社、下七社揃った二十一社を祀ってあったと思われる。

現在も、ご神体を収める神庫が3つあると聞く。

本殿には見ざる聞かざる言わざるの三猿など、見事な彫刻があるそうだが、管理者不在のため勝手に物色するのは控えた。

ちなみに鳥居と拝殿の狭いアプローチにある手水舎がちょっと窮屈そうでなんともw

日吉神社からちょっとだけ離れたところに六地蔵がある。

霜野日吉神社前六地蔵

というふうに名付けられている。裏の説明板に書かれてていた。

釈迦入滅後、弥勒菩薩がこの世に出現するまでの間、即ち無仏の期間を担当して、衆生
を救済する菩薩を地蔵と言い、平安時代から信仰が盛んになり、特に江戸時代には庶民の信仰をあつめた。

人は死ねば地獄・餓鬼道・畜生道・修羅道 人道・天道の六道(六つの世界)に往き、そ れぞれの因果応報をうけねばならぬが、地蔵を信仰し供養すれば、その功徳によって六道にそれぞれの地蔵が出現して、苦しんでいる 亡者を済度するといわれる。

六地蔵は、その信仰の証として建立されたものである。 この六地蔵は文政6年(1822)に建立されたもので「福音」の刻銘が残っている。

昭和四十九年四月
山鹿市教育委員会

霜野日吉神社 の 歴史・由緒

先述の通り、比叡山のようなものを、この地域に再現するにあたって、勘定されたと思われる「霜野日吉神社」。

康平寺が康平元年(1058年)の創建だとすれば、この時期からそう遅くない時期にできたのかと思うと、歴史は相当古い。

霜野日吉神社 の 御祭神

大己貴神、国常立守、正哉吾勝神、国狭槌神、伊弉諾神、瓊々杵神、惶根神

霜野日吉神社 の 祭事

3月15日

霜野日吉神社 へのアクセス

  • 所在地
    〒861-0573 熊本県山鹿市鹿央町霜野
  • 駐車場
    なくはない
  • 公共交通機関
    • 産交バス 仁王堂から15分
    • 高速バス 鹿央から30分