保田窪菅原神社・保田窪観音堂大悲殿(熊本市)
保田窪菅原神社
保田窪菅原神社 は、熊本市東区保田窪、東海大学(熊本)の裏にある「菅原神社」天神さまです。
藻器堀川の水を白川に逃がす放水路あたりをお散歩している時に参拝。熊本市発行(平成13年発行)の「託麻の年表」には、「保田窪天満宮」と記載されている。
一の鳥居はもっと南にあり、用水路の橋をわたると、二ノ鳥居と拝殿・本殿と続きます。
実はこのあたりの中学校に通っていたのだけど、ここに神社があったなんて知りませんでした。子供の頃は神社に興味すら持ってなかったんですねぇ。
扁額には天満宮と書いてあって菅原道真公(天神さま)が祀られていることがわかります。
参拝した時は、ちょうど境内を掃除している方が居たので、無人の神社ではないことがわかりました。菅原神社(天神さん)は勉学の神様でもあるので、受験生の保護者たちからも結構人気があるみたいですね。
飛梅もあるし臥牛(横たわった牛)もあって、天神さまって感じの神社です。
なんとなく神秘的な神社というより暮らしの中の神社って感じの身近な空気感がいい味出してました。(もちろん立派な樹木もある)
大好きな猿田彦大明神もありました。庚申供養の形跡を感じます。
保田窪菅原神社 の歴史
細川忠利が、託麻原の曠野開拓のため新地鉄炮組を置いたのが邑の始まりで、今も鉄炮小路の面影が見られる。現在は通称東バイパス、東西線の道路が通り住宅地として発展している。そんな地筒が産土神として祭祀したのが、保田窪菅原神社で創建は寛永11年(1634年)。入植と同じ年である。
時代的には第109代・明正天皇、江戸幕府の第三代将軍・徳川家光の時代にあたる。
家光は外様大名の忠利を信頼していたようだ。反面他の外様大名にとっては少々目障りだったという話もあるみたい。
菅原神社と天満宮
菅原神社も天満宮も御祭神は菅原道真公です。菅原道真公はもともと学識があり非常に優秀だったので右大臣まで出世するのですが、左大臣・藤原時平の謀略で大宰府に左遷されてしまう。失意のうちに亡くなったのでした。
その後、平安の都では雷、疫病などの天変地異や謀略に加担していたとされる人たちが相次いで亡くなったりしたことから、菅原道真公の祟りだと恐れた人々が、大自在天や大威徳明王(それぞれヒンドゥー教の神様らしい)などと関連付けて考えられるようになったところに起源を発するようだ。
「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」に由来するみたいです。なので「天満宮」と呼ばれているようです。
また、雷とかの印象から火雷天神と結びつき「天神さま」と呼ばれるようになったと推測されてます。
ちなみに、天満宮の総本社は京都・北野天満宮と福岡・太宰府天満宮となっているみたいです。どっちが上かはわからない。
臥牛とは
菅原神社としてGoogle Mapなどでは表示されますが、扁額は「天満宮」いずれにしても菅原道真公が御祭神ということですよね。この菅原道真公が丑年の生まれで、お亡くなりになられた際も牛に棺?を運ばせたので、牛にご縁が深い人なんですね。
飛梅の由来
当菅原神社(天満宮)は文化、文教の神として 世の崇敬厚さ、菅原道真公を祭神としています。 道真公に思場の御衣を捧げ「去年今夜」の詩を詠じ皇恩に感謝し給い延喜3年(903年)3月25日、御年59才で薨じられた、御遺版は、大宰府天満宮の本殿のところに葬られ、聖王廟と称えられています。道真公は正暦4年(993年)、正一位、左大臣、更に太政大臣を賜られ、天満大自在天神と、崇め奉られています。 昌泰4年(901年)正月藤原氏権勢を恣にし、道真公は大宰牧師に左遷せられ、九州に下向されることになり2月京都を御出発の時、庭前の梅を顧みて
東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ
と詠じられ、その梅が大宰府神社の社殿の庭に飛び来て咲き栄えたと伝えられる御本殿前の飛梅は有名です。この飛梅の樹を接木育されたものを当社総代相語り、当社行藤宮司の努力と大宰府天満宮の御厚意により、昭和53年(1978年)3月5日拝領し当社に転植されたのが、この飛梅です。社殿の左側にある紅梅も、大宰府天満宮より拝領したものです。両方共、大事な梅の木ですので、大切に扱って 一下さるようお願いします。
平成十七年七月吉日 日室 菅原神社
飛梅
宮司行藤
総代言
熊本協同体 出陣の地
保田窪観音堂大悲殿
保田窪菅原神社が管理者となっている、保田窪観音堂大悲殿、どんな由来があるのかわからないのでご存知の方教えてください。
保田窪菅原神社・保田窪観音堂大悲殿へのアクセス
〒862-0925 熊本県熊本市東区保田窪本町21
駐車場奥の方に小さいのがあるらしい。ないものとして参拝してください