私たちが学ぶ歴史の教科書は、常に近畿地方の「ヤマト王権」が主役です。しかし、まだ日本という国が形作られる前の3世紀から4世紀、熊本にはヤマトさえ手出しできない「国家」が存在したことをご存知でしょうか。
熊本の古代史を語るとき、私の中でその中心にあったのは、常に「阿蘇」でした。 雄大なカルデラ、健磐龍命(タケイワタツノミコト)の伝説、そして阿蘇神社の悠久の歴史……。神話と伝承が織りなす神秘的な世界こそが、この国のルーツだと思っていたのです。
しかし、歴史の地層をもう一枚めくってみると、そこには神話のロマンとは一線を画す、冷徹で圧倒的な「現実」が眠っていました。 それは、祈りではなく、「鉄」と「武力」でヤマト王権を震え上がらせた、独立国家の姿です。
今回は、私が知っていた神話の世界の裏側にあった、もう一つの火の国の歴史について紐解いていきます。
常識外れの「鉄」を持つ熊本北部
その中心地は、現在の山鹿市・菊池川流域にありました。 ここに広がる「方保田東原(かとうだばる)遺跡」は、あの吉野ヶ里遺跡を凌駕するほどの規模を誇る、巨大な都市遺跡です。
現在は、ひまわり畑として、夏には写真映えするスポットとして人気がでている場所なんですが、いいところです。



方保田東原遺跡の特筆すべきは、出土する遺物の圧倒的な「質」と「量」です。 当時のヤマト(近畿)では宝石のように貴重だった「鉄」が、ここでは武器だけでなく、斧や鎌などの農具として惜しみなく使われていました。さらに、特殊な祭祀に使われる「青銅器(巴形銅器など)」も多数見つかっており、この地が武力だけでなく、宗教的な「権威」も併せ持っていたことを物語っています。国指定史跡であることの所以ですね。
なぜ、これほどの物資があったのか。 それは彼らが、有明海から外洋へ出て、朝鮮半島南端(伽耶・加羅)と直接結びつく「海のバイパス(独自交易ルート)」を持っていたからです。北部九州の玄関口を通さずとも、最新の文化と資源が菊池川を遡って直送されてくるシステムが出来上がっていたのです。
現在の山鹿市を歩くと、あちこちに古墳が点在し、古い街道や街並みの中に、どこか悠久の時を感じさせる重厚な空気が漂っています。 それは、ここが単なる地方の町ではなく、かつて一国の「首都」として栄えた王者の記憶が、今も土地に刻まれているからなのかもしれません。
阿蘇・芦北・天草…最強の「役割分担」と国造のルーツ
しかし、北の「鉄」だけが火の国の全てではありません。 当時の火の国は、県内各地の強力な部族たちが、それぞれの得意分野で手を組んだ「巨大な経済共同体」を形成していました。
特筆すべきは、この時代に確立された4つの勢力基盤が、のちのヤマト王権時代に「国造(くにのみやつこ)」として公認される、由緒ある支配者たちのルーツとなっている点です。(肥後の國造)
- 東の「阿蘇」【阿蘇国造の祖】: 噴煙を上げる火山を鎮める祭祀を行い、精神的な支柱となりました。さらに、呪術的な価値を持つ赤色顔料(ベンガラ)を供給。この宗教的権威は、現在まで続く阿蘇神社の神職家系へと繋がっています。(阿蘇家)
- 南の「芦北・球磨」【葦北国造の祖】: 南の海への玄関口。ヤマトの王族が喉から手が出るほど欲しがった、魔除けの「貝(ゴホウラ等)」を沖縄方面から入手するルートを掌握していました。この外交・交易力が、のちに半島へ渡る外交官・葦北氏の土台となります。
- 西の「天草・宇土」【天草国造の祖】: 卓越した航海術を持つ海人(あま)族。彼らの船が、有明海から朝鮮半島、そして南島へと自在に行き来し、鉄や貝を運ぶ物流を担いました。
- そして中核となる「北部・中部」【火国造の祖】: ここが火の国の心臓部です。北(山鹿・菊池)が誇る圧倒的な「鉄」の生産力と、中(氷川・宇城)に拠点を置く氏族の「政治力」。この広大な平野部を一体として支配した勢力が、のちの「火国造」として国全体を統括する盟主となりました。
鉄・祈り・貝・船。 これらが一つに繋がることで、ヤマトに頼る必要のない、自己完結した強力な経済圏が完成していました。この強固なネットワークこそが、狗奴国の正体であり、後の「肥後国」の骨格となったのかなと、私は思います。
卑弥呼と対峙した実力者「狗奴国」の有力候補
これほど強固な経済圏を持っていたとなれば、歴史のミステリーにおける「ある巨大な国」の正体が浮かび上がってきます。
中国の歴史書『魏志倭人伝』に記された、女王・卑弥呼と対立していた男王の国、「狗奴国(くなこく)」です。
卑弥呼が「呪術と権威」で国をまとめていたのに対し、この国は「圧倒的な鉄と武力」を背景にしていました。方保田東原遺跡を中心とするこの火の国連合こそが、狗奴国の実体であったという説は、いまや考古学的にも極めて有力視されています。
また、この勢力の影響力は現在の熊本県(肥後)だけに留まりませんでした。有明海を挟んだ対岸の佐賀・長崎方面(のちの肥前国)をも含む、広大な文化・経済圏を形成していたと考えられています。 だからこそ、のちの時代に「火の国」は一国では治めきれず、「前」と「後」に分割されるほどの規模を誇ったのでしょう。
ヤマトとは違う神を祀り、違う経済圏を持つ、誇り高き独立国家。 しかし、独自の道を歩んだ時代は長くは続きませんでした。
大陸情勢の変化と、東からの圧力。生き残るために「独立」から「提携」へと、舵を切る時が来ます。
次回、火の国がヤマトと手を組む決断をした「火の国 支配の変遷 ②黄金の提携期」へとお話を進めます。


