前回の記事、 火の国 支配の変遷 ④「決断と代償・支配の受け入れ」 では、磐井の乱における決断と、その代償としての屯倉(ヤマト直轄地)の受け入れについてお話ししました。
西暦528年、磐井の乱の終結。そこから日本が律令国家としての形を整える7世紀末にかけての約1世紀半は、火の国にとって長い試練の時代でした。文字による記録が極めて少ないこの期間、何が起きたのかを雄弁に物語るのは、地面の下から見つかる考古学的な証拠です。ヤマト王権は、もはや火の国を単なる同盟者とは見なしませんでした。
今回は、巨大な火の国連合が解体され、徐々にヤマトの管理システムに組み込まれていく過渡期の姿を、出土品や古墳のデータから紐解きます。
【解体】 火の国連合から、ヤマトの管理下へ
ヤマトが最も恐れたのは、火の国の圧倒的なまとまりでした。それまでの火の国は、和水町の江田船山古墳に見られるような、豪華な副葬品を共有し、高度な鉄器製造や外交権を持つ火君(ひのきみ)という強力な盟主を中心とした氏族連合でした。
ヤマトはこの連合の代表権を剥奪し、地域ごとに国造(くにのみやつこ)という役職を個別に与えました。一人の王が全体を率いるのではなく、各地域のリーダーをヤマトが個別に直属化させることで、横の連携を制度的に断絶したのです。
【分割】 牙を抜くための戦略的配置
ヤマトによる分割統治は、考古学的にも裏付けられるほど戦略的でした。かつての一体的なエリアを五つに切り分け、それぞれに異なる役割を持たせたのです。
1. 本拠地の象徴化(中部・南部)
現在の八代や宇土を中心とする本拠地は火国造(ひのくにのみやつこ)とされました。しかし、かつて九州を代表した巨大な権威は、数ある国造の一人にまでその影響力を削がれました。
2. 聖と俗の融合(東部)
阿蘇エリアは阿蘇国造として独立。ここは他のエリアとは一線を画す、特殊な地域でした。彼らは、後の阿蘇神社・大宮司(だいぐうじ)家へと続く家系であり、荒ぶる阿蘇の火山を鎮める祭祀を行う宗教的指導者でもあったのです。
同時に、阿蘇は重要な馬の生産地でもありました。当時の馬は軍事力であると同時に、神の乗り物としても神聖視されていました。祈り(宗教権威)と武力(馬)の両方を握る阿蘇氏は、ヤマトにとっても畏怖すべき存在であり、その特殊な地位を認めざるを得なかったのです。
3. ヤマトのための防衛線(南部)
現在の芦北付近は葦北国造として独立。ここはヤマト王権にとって、南の隼人(はやと)の北上を食い止めるための最前線防衛拠点でした。ヤマトの支配領域を守るための壁としての役割を固定されたのです。
4. 海の道の直轄化(西部)
天草エリアは天草国造へ。大陸や朝鮮半島へ繋がる有明海の物流ルートと、操船技術を持つ海人族を、ヤマトの直接的な管理下に置きました。
5. 緩衝地帯としての県北エリア
現在の玉名・山鹿を中心とする県北エリア。ここは筑紫(福岡)と火の国の境界に位置する重要な緩衝地帯でした。この地の豪族たちは、筑紫の勢力と火の国の本家の間に挟まれながらも、ヤマトと直接繋がる道を選び、独自の地位を築こうとしました。
【変容】 王から官僚へ、そしてオーダーメイドの貢納
国造という役職を与えられたリーダーたちは、その本質を書き換えられました。それまでの彼らは、自らの実力と血筋によって土地を治める王でしたが、国造制のもとでは中央から任命される地方官(官僚)へと変貌します。
また、支配の実態もより直接的になりました。後の律令制のように全国一律の税率が決まっていたわけではなく、この時代は地域ごとにヤマトが必要なものを差し出すオーダーメイドの貢納体制でした。
考古学的には、特定の集落で特定の製品(塩、土器、武器の材料など)が大量生産されるようになります。これは部(べ)と呼ばれる、ヤマト直属の生産集団が配置された証拠です。ヤマトの要求に応じ続けることでしか、彼らの地位は保証されない時代へと突入したのです。
【抵抗】 装飾古墳に刻まれた、静かなる独立心
政治的に分割され、ヤマトに従属した火の国のリーダーたち。しかし、彼らは自らのアイデンティティまでを売り渡したわけではありませんでした。その最も強力な証拠が、全国でも突出した装飾古墳の多さです。
日本全国に存在する装飾古墳は約660基とされていますが、そのうちの約3分の1、約200基が熊本県に集中しています。石室内部を赤や緑、白の鮮やかな顔料で彩り、幾何学模様や武具、船を描くこの文化は、ヤマト(近畿)の古墳にはほとんど見られない独自のものです。
政治システムはヤマトに従いながらも、死後の世界や精神的な美意識においては、決してヤマトに染まらない。この圧倒的な数の装飾古墳は、分割統治下にあっても消えることのなかった火の国の民としての誇りの爆発だったのかもしれません。
【次章へ】 群雄割拠する国造たちの物語
こうして火の国は解体され、制度の中に組み込まれました。しかし、分割された各エリアの国造たちは、それぞれの知恵を絞り、激動の時代を生き抜こうと足掻きます。
なぜ県北の豪族は、あえてヤマトの忠実な僕として振る舞ったのか。阿蘇のリーダーは、どのようにしてその巨大な権威を維持し続けたのか。
次回、火の国 支配の変遷 ⑥「群雄割拠する国造たち・それぞれの生存戦略」へ続きます。
火の国 支配の変遷
かつて強大な独立国だった火の国は、どのようにしてヤマトの支配下へと組み込まれていったのか。その激動の歴史を振り返ります。
① 黎明・独立国の誇り 卑弥呼とも対等に渡り合った軍事大国「狗奴国」の時代。
② 黄金の提携期 ヤマト王権との同盟。北の筑紫を牽制する西の守護神としての時代。
③ 二つの太陽と、南からの風 ヤマトの変質と筑紫の台頭。動くに動けない冷戦の時代。
④ 決断と代償・支配の受け入れ 磐井の乱での苦渋の決断。生き残りの代償として屯倉を受け入れた転換点。
⑤ 分割統治と、王から官僚への変貌 五つの国造への解体。任命制の管理職へと変質させられた時代。
⑥ 群雄割拠する国造たち・本家火国造の苦悩 実務家へと変貌し、ヤマトの物流を支えることで家名を繋いだ本家の生存戦略。
⑦ 群雄割拠する国造たち・阿蘇国造 宗教的権威と軍馬を武器に、聖域の主として独立を保った阿蘇氏の戦略。
⑧ 群雄割拠する国造たち・県北のリーダーたち 筑紫の磐井という脅威に最も近い最前線で、ヤマトと結びつき産業を独占した県北豪族の知略。
⑨ 群雄割拠する国造たち・葦北と天草 ヤマトから「直」という称号を得て、火の国連合からの自立と生存を選んだ南部のプロたちの物語。
⑩ 肥後国の誕生と、古代王国の終焉 律令・神話・仏教というシステムにより、火の国のアイデンティティが「肥後国」へと塗りつぶされた完結編。
よくある質問
Q1: 磐井の乱の後、火の国の支配体制はどう変わりましたか?
A1: それまでの強力な氏族連合(ワンマン体制)が解体され、国造(くにのみやつこ)という制度によって、火・阿蘇・葦北・天草・県北(火長)の5つの地域に分割統治される体制へと変わりました。
Q2: ヤマト王権による国造制における支配の特徴は何ですか?
A2: 地元のリーダーの地位が血筋による王から中央に任命される官僚に変化した点、および画一的な税制ではなく、地域ごとの特産品(馬、兵、海産物など)を強制的に提供させるオーダーメイドの貢納(部民制)が行われた点です。
Q3: なぜ阿蘇国造だけが特殊な地位を持っていたのですか?
A3: 阿蘇氏は後の阿蘇神社大宮司につながる家系であり、火山の祭祀を行う宗教的権威と、軍事力としての馬の生産という両面を握っていたため、ヤマトもその影響力を無視できず、特別な独立性を認めざるを得なかったからです。


