渡鹿菅原神社 / 水分神社(熊本市)
渡鹿菅原神社 / 水分神社
白川から田迎・出仲間方面への用水路の取水堰・渡鹿堰を守る神(水分神)と菅原道真公を祀る神社。
由緒書にある宮司さんは渡鹿観音堂やら渡鹿の年禰神社も管理なさってるようです。
渡鹿菅原神社 / 水分神社へのアクセス
- 交通
産交バス 渡鹿六丁目 より徒歩7分くらい - 所在地
〒862-0970 熊本県熊本市中央区渡鹿6丁目11−89 - 駐車場
あり(若干台)
渡鹿菅原神社 / 水分神社について
由緒書
往古は早鷹神の森(現在渡鹿五丁目)として古代人の信仰の寄り所であり集いの場所であった。
さて、延喜三年(九〇三年)菅原道真公が没せられたので神の森は早鹰天神となった。ついで天正十六年(一五八八年)に熊本城主加藤清正公が白川から田迎・出仲間方面への田畑の水路 (一、二、三の井手)をうるおす為に渡鹿堰を完成された。
清正公は大喜悦され堰の守護神(水分神)と早鷹天神の分身(菅原道真公)を尊崇するようにと現在地に神社を創建された。この渡鹿堰の水路で三千町歩の田畑から見事な肥後米が生産された。
然し時代の推移と共に御社殿が破損し宝永八年(一七一二年)享和二年(一八〇二年)と他数回にわたり、本庄・田迎・長溝・大江方面の水利関係者の寄付と奉仕により修理された。
さて近年になり破損が甚だしいので再建の運びとなった 今日に至る造に実に一〇八〇年以上の歴史が刻まれている。
昭和60年(1985年)1月吉日
宮司 黑川親弘
熊本市指定史跡
この神社境内は、縄文時代後期初頭の貝塚遺跡の地。昭和三十年代に発見され、渡鹿貝塚と名づけられた。周辺が悉く開発される中で、この境内だけがそのまま保存され、市内における貴重な貝塚の一つとして位置づけられる。また、この神社の飛地境内にある井島山は、渡鹿堰の開発に功労のあった井島玄蕃允の墓と伝えられ、その全体の形状から見て高塚式古墳と考えられる。これらは、ともに市内の歴史を物語る貴重な遺跡である。
渡鹿貝塚を含めて、白川南岸に位置する遺跡を渡鹿遺跡群と読んでいるらしい。昭和三十六年、渡鹿菅原神社境内における貝塚の発見により、その存在が明らかとなる。縄文時代後期の土器を多数採集。近年の数度にわたる発掘調査により、弥生時代、古墳時代、奈良時代の遺跡も確認される。弥生時代においては、擬朝鮮系無文土器が出土し、朝鮮半島とのつながりを示す重要な資料となる。古墳時代後半には集落が形成され、竪穴住居や土器が出土する。奈良時代には、奈良三彩片が出土し、対岸の熊本大学構内に西海道の中継基地が存在したこと、ひいては、この地が交通の要所であり、富裕層が存在したことを示す貴重な資料となる。
御祭神とご利益
なんの神様
水分神 / 菅原道真公
祭事
どんなお祭りがあるのかな?
一月十一日
十月二十五日
御朱印
御朱印の有無・対応時間など
渡鹿菅原神社 / 水分神社の見どころ
渡鹿菅原神社 / 水分神社に参拝したら是非チェックしてほしいポイント
早鷹神社
御祭神 大山津見神(自然神)菅原道真公
祭典日 十一月二十五日
神社風土記によれば古代は神の森として、森全体が神域であって、渡鹿の中央(現在は渡鹿五丁目に遺跡として現存)にあり、古代人の信仰の場であった。これが約千八十年前に、早鷹天神となり、それから六百八十年後にその分神を水分神と共に現在の水分神社・菅原神社にお祀りした。この度、御本体の渡鹿中央は遺跡として保存し、御神体はこの神社に遷された。 昭六十一年十二月吉日 宮司 黒川 祝弘
荒神社
御祭神 奥津彦命 奥津姫命
祭典日 3月28日
渡鹿菅原神社 / 水分神社の沿革
年月 | 出来事 |
---|---|
903年(延喜3年) | 早鷹天神として創建 |
1588年(天正16年) | 加藤清正公により、水分神社・菅原神社としてアップグレード |
1712年(宝永8年) | 修繕 |
1802年(享和2年) | 修繕 |