新開神社(合志市)

新開神社の鳥居の扁額

新開神社

この地域はもともと軍事施設があり、いまも演習場がある。当地にあった教育隊の隊長が戦地で散った英霊たちを祀るために建立。また戦後には復員兵たちの食糧を確保するためにこの黒石原の軍事施設の一部を開墾する。寸暇を惜しんで許可を得るために奔走していたようだ。目処がついたらその体調は自刃し、辞世の句を遺す。

この小さく、歴史も浅い神社。込められた祈りは相当なものである。

写真は2022年頃のものだけど、令和6年現在は球磨工業の宮大工の卵が新しい社殿を創っているみたい。

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新開神社の説明板・ご由緒書

新開開拓記念碑の写真
新開開拓記念碑 碑文

ここ新開区は、旧軍用地の跡地である昭和20年終戦になるや、復員や海外からの引揚げが開始された。当時我が国土は荒廃し、食料や生活物資も欠乏し国民生活は困窮していた西部軍教育隊隊長の棚橋眞作氏はこの実情を憂い、
この演習場跡地の山林原野を開墾し食糧の生産を志し、これに応じた者は空いた兵舎に移り住み共同農作業に参加した。昭和21年、政府の緊急開拓事業が実施され、同年4月黒石原開拓団として起耕式が行われ、ここ黒石原の原頭に立った開拓者達の鍬が、広漠る大地を拓き始めたのである。昭和26年に黒石開拓農業協同組合を設立、当地区は二十余戸の間拓農家とその縁故家族等で里を構成する、三十数戸の居住区となり、新開区との地区名で呼称される集落となる。以後開拓は着々と進展し畜産業を主体とした農村集落としての地域体制が確立された。

その後、移り行く時代の変遷に係い、当地区も農業地区から混住地区へと、さらには住宅地区へと居住環境は様変わりした、住宅団地の造成により、此処を郷土と定めて居住する人々が増え、新開区の戸数も増え六百戸の大集落となるに到った。今般 防衛庁基地周辺整備事業による新聞街区公園の竣工にあたり、戦後の困窮時代に開拓者としてこの地区に入植し、営農に励んだ先人たちの偉功を偲び今後とも当新開区が良好な地域社会を維持し、住み良い里となることを祈念し、此処に新門拓記念碑を建立した。

平成15年1月吉日 文野田十三生

新開神社の由来

このお社(やしろ)は昭和19年(1944年)、元西部軍管区教育隊長として赴任した棚橋眞作大佐が、戦地に散った部下の将兵の英霊を奉るとともに、国の将来に考望を託し、永久の平和と地域の発展と人々の幸せを願い、ここ新開(現合志市須屋)の地に建立しました。

棚橋大佐は昭和17年。步兵第112連隊長(丸亀部隊)としてビルマ(現 ミャンマー)戦線におもむき、英国、インドの連合軍と再三にわたり交戦。最後は食糧、兵器とも補給のないまま、最前線の「棚橋連隊」は兵力の半数以上 を失う窮地に立たされました。大佐はこれ以上無理な戦闘を続け戦死者を出すことは、日本軍、ひいては日本の将来にとって損失になるという大局的な見地から連隊の撤退という苦渋の決断をしました。

昭和19年6月、軍命令で帰国した大佐は、四国・九州を訪れ一足先に帰国していた連隊副官が調達してくれた軍馬に乗って戦死した将兵の遺族を一軒づつ尋ね歩き、連隊長として尊い命を死に至らしめた不明を涙ながらに詫びるとともに、自らの責任を任じ、死をもって償うことを心に誓いました。

昭和20年の終戦を機に自決を考えましたが、大佐にはその前にやっておきたい仕事がありました。戦争で荒廃した日本に復員する将兵や引揚者の食糧を確保する為、黒石原の教育隊演習場を開墾することでした。開拓の許可を熊本県から取るため日夜奔走し、許可がおりると、この地を「新開開拓地」と名づけました。

開拓への準備が整ったのを見届けた大佐は、かねてからの決意を胸に昭和21年2月13日未明自決を決行しました。戦争という行為が、自国のみならず相手国にも悲惨な結果をもたらすことを自らの死をもって伝えたかったのでしょう。

辞世「国破れ 何の命ぞ たらちねの 弓矢の道を 我は行くなり」

平成23年9月吉日 建立

御祭神とご利益

なんの神様

いわゆる英霊?

祭事

どんなお祭りがあるのかな?

不明

御朱印

御朱印の有無・対応時間など

おそらくない

新開神社ギャラリー

新開神社の風景

新開神社の沿革

年月出来事
1944年(昭和19年)建立
年月出来事

新開神社へのアクセス

  • 交通
    熊本電鉄 黒石駅より徒歩15分
    熊本電鉄バス 黒石下より15分
  • 所在地
  • 駐車場
    近隣の公園とか公民館・・・

参照情報・参考文献

 “球磨工業伝統建築専攻科の生徒が「新開神社」の本殿製作”. 人吉新聞社.(参照日;令和6年6月16日)