遠山神社 (山鹿市)
遠山神社
Toyama Shrine
ギャラリー
神社 の 歴史・由緒
遠山弥二兵衛と蒲生の溜池
(細川藩)では江戸時代の265年間に60回の干ばつが発生した。 もともと 周辺の村は水が乏しく、田畑は干し上がり収穫は少なく最低の生活を強いられ、干ば ともなればは目をおおうばかりであった。年貢を納めるどころかいの米を肥後 からいただいて窮状を乗り越えていた。
山鹿郡中村に赴任して来た肥後藩の代官遠山弥二兵衛は、この惨状を救いたいと心をい大池を築くことを村々を招集して何度も相談しました。この中で、古来より大溜池を築く噂はあれど、貧しく資力もなく話だけで終えて来たと古老から聞く。
その後、村民と協議を重ねた結果、肥後藩公に許しを得て大事に踏み切ったのは江戸末期の1855年、彼は三二歳であった。しかし、容易なことではなかった。 内田川の 谷川から溜池までは3000mの距離があり水路を作り、さらには三ヶ所のマブ(トンネル) 1000mを振らればならない。幸い水路が完成し水が溜まっても、堀の土手が水圧に耐え得るか大きな心配事でした。それでも常に心を痛めながらも彼も村民も官民一体の工事が続いた。彼が最も苦心したのは工事費で、貧しい村で調達するのは不可能で、今までの色々な寸志金(上納金)を藩から取り下げてもらい、人夫賃も払う事ができた。行政力のある遠山彌二兵衛はいろいろな苦辛を重ねながらもついに二か年の工事を終えた。
長谷川堰からとうとうと流れこむ水を近郊近在の全村民が固唾をのんで溜め池の土手を見守った。「遠山夫妻は白装束で土手に正座した」。強大な水圧に耐え切れず決壊したら命を共にしようとしたのだ。 遠山の命令一下、放水口の栓が抜かれ水は大渦を巻いてごうごうと唸りながら井手口に噴出し白蛇が踊るがごとく流れ始めた。飲声が山に谷にこだました。全ての者が息をつめて堤上の遠山夫妻を見つめ、みんな泣いて夫婦を拝んだ。 井手口の三カ所は上吉田、蒲生、十三部方面の約500haを潤い養っている。
感激した村人は毎年4月4日、木神遠山祭りとして祭りを行って来た。明治41年、葦北郡田浦町で他界したとき、遺言に従い土手に夫妻の遺骨を埋めて神社を建て、神としてこれを祀り4月4日を恒例祭として今も続いている。弥二兵衛の余栄これに過ぎるものはあるまい。と同時に成りて159年、今もその思沢を偲んでいる蒲人々の心情に触れるものである。
神社 の 御祭神
遠山彌二兵衛
神社 の 祭事
4月4日 遠山祭
神社 へのアクセス
- 所在地
〒861-0523 熊本県山鹿市蒲生 - 駐車場
境内に数台停められる