征西将軍宮 (宇土市)

宇土市走潟町の西端にご鎮座。ここらへんは「島原大変肥後迷惑」の津波で被害を受けた地域だと思われる。

「島原大変肥後迷惑」は、1792年(寛政4年)に長崎県島原半島で発生した雲仙岳の噴火と、それに続く眉山の大規模山体崩壊、そして発生した津波によって、島原と対岸の肥後(現在の熊本県)が大きな被害を受けた災害。死者は約1万5000人と言われ、日本史上最大規模の火山災害と伝えられる。

なぜ、ここに征西将軍のお宮があるのかは不明だったけど、最近はご由来が設置されて、その情報を公開しているブログがあったので、参考にして情報更新をしました。

征西将軍宮の歴史

ご由来については、私が参拝したときにはなかったけど、令和3年末に設置されたみたいです。
オールクマモトでは要約文を掲載しますが、詳しくはDesert Roseのno+e「九州南北朝の史跡巡りシリーズ🌹宇土編 後編 (宇土市歴史さんぽ⑤) 【征西将軍宮】」を御覧ください。

由来(要約)

将軍神社は、後醍醐天皇の第16皇子であり、南北朝時代に南朝方の勢力拡大のため九州に派遣された懐良親王(征西将軍宮)を主祭神として祀っています

伝承によれば、懐良親王は菊池氏との縁で走潟の地を度々訪れていました 。この縁に基づき、菊池武房が親王を祀るために将軍神社を創建したとされています

神社は一度廃れたものの、江戸時代の1672年に再建され、大正6年(1917年)に現在の場所へ移されました

歴史考察

しかし、Desert Rose さん記事の中で指摘があったので、私も時代考証?をしてみました。菊池武房は菊池氏の10代目で元寇襲来で活躍した、鎌倉武士なんですね。熊本の歴史でも有名な方です。

懐良親王(征西将軍宮)は室町時代(南北朝時代)の方なので、時系列的には会わない。懐良親王を迎えて、九州の南朝方を盛り上げたのが菊池武光ですから、せめてこの方よりのちの菊池さんが宮を造ったというのであればわかりやすいのだけどね。

Desert Roseさんは更に続ける、征西将軍宮は良成親王(二代目の征西将軍)が宇土に征西府を設置した歴史にちなんでいるのではないかと。確かに、将軍宮とかは天皇やそれに準ずる皇族の宮が置かれた場所に作られることが多い、山鹿の大宮神社がパッと思いつく。

であれば、本来の御祭神は良成親王である可能性がありますね。。。

征西将軍宮の御祭神

征西将軍なので、懐良親王もしくは良成親王と推定

征西将軍宮 の境内

征西将軍宮 への アクセス関連

宇土市走潟町

駐車場:なし