


弓削法皇社 は 弓削神社 と対をなす神社です。
女神の弓削神社に比べると至って普通の佇まいの神社なのが意外。孝謙天皇が主祭神なんですが、弓削神社に孝謙天皇・藤子姫が祀られているとなると、男神であるこちらには上弓削神社には道鏡が祀られていてほしいのだが。
そもそも法皇社と扁額に書かれているのだから、なおさら不思議に思う。
弓削という地名に道鏡を絡めて、道鏡だから性器信仰を絡めて現在に至るのだろう。
弓削法皇社 ( 上弓削神社 )へのアクセス
- 交通
- 所在地
熊本県熊本市東区弓削町258 - 駐車場
若干
弓削法皇社 ( 上弓削神社 )の由来
境内にある御由緒には「弓削神社の由来」神社名:弓削法皇社と書いてあって、ちょっとどっちなんだ?となる。御祭禮
第四十六代の孝謙天皇(女帝)は、四十五代聖武天皇の第二皇女、母は光明皇后、749年聖武天皇のあとをうけて即位、758年淳仁天皇に譲位。
その後、孝謙上皇(出家し譲位した天皇に対する尊称)が病気全快に功があった弓削の道鏡は、上皇の寵愛を受けて政界に進出。その頃実権を握っていた藤原仲麻呂これを喜ばず、淳仁天皇を擁して反乱を起こしたが失敗した。
746年、孝謙天皇が再度即位して称徳天皇となると道鏡は益々勢力を得て太政大臣となり、翌年法皇となる。宇佐八幡宮の神託といつわり奸計をめぐらしてが和気清麻呂により陰謀は失敗し称徳天皇崩ずるや下野田(茨木)に左遷されこの地で一生を終えた。
肥後国誌
あれは、由来とかじゃなくて、孝謙天皇と弓削道鏡の物語が書かれているにすぎない。結局、創建に関わる話は、肥後国誌などで調べる他ないようだ。「近世には法皇宮や法皇社と称された。時期不明ながら、若杉某という者が神体を守護して勧請したのに創まるという。」
性器奉納の由来
御祭神は農作物の豊穣、子さずけ多産や夫婦仲のよさと子宝に恵まれた至極円満な家庭の守り神で、泣き昔より近郷近在はもちろん他県からも広く敬われている祭神であります。夫婦仲の和、不和は性器の良否にも原因があるといわれ又は不自然な性行為を究めて、その願望を叶えさせられると昔より云い伝えられています。
その願望を叶えさせられて、古来より幾千幾万の家庭を救い、子宝を授けられたと遠近よりの御礼詣りと参話者が絶えることはありません。 昭和二十八年六月二十六日の白川の大洪水のため神殿周囲の王垣の中や拝殿にまで大願成就の性器が山積していましたが大洪水で全部流失し、 今は僅かな奉納品でありますが、又日を追って性器の数もふえるでせう。
対岸の竜田町弓にも法皇神社(弓削神宮のこと)があります。
当宮の男神が対岸の法皇神社の女神の許に川の中の飛石を渡り行き、毎夜の逢瀬を楽しんでいたと言う古来からの言い伝えがあり、情緒誠に豊かな物語が秘められている当宮であります。当宮は昭和の終戦まで、うっそうたる社木に覆われ昼なほ暗く社殿の壮厳さこのうえない境内で、真夜中の鬼気せまる丑三時に悲願をかけて草人形を杉の老木に打込んで、願いの成就を祈ったところでございます。
弓削法皇社 賛会
弓削の由来
肥後国合志郡弓削村(明治初期)
弓削という名には法皇神社を祀るようにあまりにも弓削の道鏡の映像がまつわりついている。たしかに道鏡は河内の弓削(大阪府八尾市)出身で称徳天皇に寵愛され一介の僧侶から政権をほしいまにした人物である。このように 道鏡は妖僧の面影がまことに強い。この道鏡に弓削をなぜ結びつけようとするのだろうか。弓削とは文字通り武器の弓を製造する集団部落であった。だがもっと道鏡にあやからうとした点はきわめて性的なにおいにいろどられているが庶民の豊穣えの願いがそのような形をとったものと思う。巨根えのあこがれも他愛ないが、これ又魔よけの呪具でもあったらしい弓削の弓も破魔の聖器でもあった。境界にあって外からくる悪霊をふせぎ庶民に幸せをあたえる神を崇拝したのが弓削である。
弓削法皇社 賛会
御祭神とご利益
なんの神様
孝謙天皇
祭事
どんなお祭りがあるのかな?
御朱印
御朱印の有無・対応時間など
弓削法皇社 ( 上弓削神社 )の沿革
年月 | 出来事 |
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参考サイト
上弓削神社,狛犬見聞録
上弓削神社(熊本市東区),御朱印散歩覚書