奈我神社乙姫宮/上南部乙姫神社(熊本市東区)
熊本市東区上南部にある、供合線沿いにある神社で、託麻北小学校・東部中学校の近くにある。
普段は無人の神社だが、秋のお神楽舞が奉納される日は地元の方々がたくさん集まり、無病息災を願う。そして、思春期の中高生にとっても、ワクワクする日っぽい。
令和2年1月3日に参拝したら、大きな和太鼓がありました。御神楽奉納の時に使うものだと思いますが、立派。
神社の名称について
神社さんの自称は「奈我神社乙姫宮」なのでしょうが、案内板などに「上南部乙姫神社」とか「上南部神社」と書いてある。正面の鳥居には「奈我神社」裏の鳥居と拝殿には「乙姫宮」という扁額。地元の方は「乙姫神社」と云う。神社ってこういう複雑さがあって面白い。
正面鳥居の扁額の文字は「従三位 惟馨 謹書」と彫ってる。
つまり第84代阿蘇大宮司−阿蘇惟馨(1775年 - 1817年)が書いたやつを彫ったということかな?
奈我神社乙姫宮(上南部乙姫神社)の由来
境内にある2基の案内板に記されている由来によると、奈我神社と乙姫神社と住吉大社が合祀された神社であることがわかる。これが呼び方の違いにつながってるんだろうね。
奈我神社
最も古いのが、奈我神社。中大兄皇子が、諸国巡業で王田に宿泊したときに、初代・神武天皇の母君・玉依姫命が夢枕に立って「我は玉依姫命の神霊なり、皇子即位ましまさば、社を建て我を祀りたまわば 郷民繁栄 天下四国民守 宝祚延久に護りもうさん 我住所は白川邊りに来てみたまえ 丸き小石やあり」と云ったとされている。だから、小石丸が御神体となったのね。
諸説あるが、斉明天皇の崩御後、中大兄皇子は皇位に就かず「中大兄皇子の称制」と呼ばれる時期が続いており、その期間である663年(天智2年)に奈我神社を建立したと伝えられています。
場所は詫麻郡本庄手永上南部村の白河南岸(現在の上南部4丁目6付近)で現在の場所から北に400〜500mくらいの場所だったそうです。ちなみに宿泊したとされる王田という地名(地域名)は今も遺る。
王掛石という皇子の腰掛けた石も伝わっている。
更に国道57号線東バイパスの脇にある中江町の中江は、中大兄皇子の御名前を由来としているみたいですよ。また、詫麻北小学校の校歌にもあるほど、地域に密接な歴史を持つ神社のようです。
度重なる戦乱で消失したが、平清盛が建礼門院徳子(高倉天皇の中宮)の安産祈願のために肥後守・平貞能に復興させた、この神領を与えられた南部弾正という人が祭祝を執り行ったと。(平清盛も肥後守だった時期はある)
その後やはり廃れてしまったが、室町時代(1503)郷主である石坂石見守が御神体を刻んで、神殿、幣殿、拝殿、楼門などを造営した。
石坂石見守は石坂城主(津久礼)なんだけど、この結果五輪の塔が上南部の墓苑内にあるらしい。
その後加藤清正が馬場楠井手が完成し、上南部村も新田化されたらしい。
寛文4年(江戸時代・1664年)に現在地に遷座したそうです。
乙姫神社
御祭神を若姫命とする乙姫神社は、もともと合志郡の郷主・日下部吉辰が貞観17年(875年)に阿蘇の若姫命を乙姫大明神として合祀したと。
阿蘇乙姫神社は、阿蘇十二社の六宮である。
住吉大社
天文元年六月二十八日奈我神社とともに全焼したが、翌年には石坂石見守、大津左近と共に再興合祀したんだそうです。
ところで、これだけじゃ全然わからない。住吉大社は最初からこの場所にあって、奈我神社が遷座するときに合祀したってこと?それとも昔から合祀されてて一緒に遷座したってこと?まぁよくわからないから触れてないのだろうけど。気になるぅ。
ご存知の方はぜひご連絡下さい。
奈我神社乙姫宮(上南部乙姫神社)ギャラリー
行事案内板をみると結構しっかり神事を行っています。
特に10月25日の御神楽奉納はは私も縁があり、ここ数年毎年参拝してますが、本当に地域の方で賑わってます。
狛犬
境内
奈我神社乙姫宮(上南部乙姫神社)へのアクセス
〒861-8010 熊本県熊本市東区上南部4丁目3−8
雑談
上南部のあたり神社の歴史を考えれば古くから暮らしがあった地域のようです。遺跡ウォーカーででみてみたら、縄文時代からの上南部遺跡をはじめ、王田遺跡、供合松ノ上遺跡、乙姫宮遺跡(まさにこの神社)、平の山遺跡などがあることから、なんとなく想像できるんですよね。
この地域は馬場楠井手の下流域で相当井手の恩恵を受けている気がします。近くに白川が流れていますが、絵に描いたような河岸段丘の地形で水の汲み上げは相当大変なはず。
近隣
直ぐ側には地蔵堂と紀念ノ櫻というのがある。
上南部地蔵堂改修の経緯
平成9年10月8日
記録によると、元々 この地蔵堂の歴史は古く、寛政4年(西暦1892年)9月に建立されており、大正6年(西暦197年)2月11日に移転改築したものと思われのことを書き記した文字が 平成 9年10月の改修時に棟木より発見された。
この地蔵堂は神社の敷地内参道沿いに建立されており三方を板壁で囲まれ、南面から参拝するようになっている。
このため堂内は人目につきにくく、時として、心なき者に悪戯されることもあり西側に面した部分に窓をつけては、という考えのもとに着工したのがそもそもの発端である。