大津日吉神社 は、大字大津の氏神として地元の方々に大切にされています。同時に東嶽城址でもあります。
調べてわかったことをみなさんと共有できれば幸いです。

大津日吉神社は昭和3年に現在地に遷宮された

大津日吉神社 の御由緒

その起源は上大津椋天神(天神森の椋で知られている)だという。合志七天神の一つと呼ばたりもしていたようです。

天保元年(1644年)に近江国坂本の 日吉神社 を勧請して大字大津の氏神として天神の森に社が建てられたそうです。
祭りの奉納相撲が盛大に行われたそうです。この影響のためか各地でも相撲が盛んに行われるようになったそうだ。

「肥後神祠正鑑」(弘化四年著)によると「元々、椋天神に日吉神社の御神霊を移してこの地域の鎮守とした。東に面している馬場下は官道の宿場町のような存在で、この神威がヤバで、乗馬したままこの東に面した官道を通ると必ず落馬しちゃう。

だから、加藤清正は官道を南に移して、正保三年7つの社をこさえました。そのときに、椋天神が日吉神社の付属(摂社・末社)のような存在になってしまいました。」とさ。

※しかし位置関係がわからないのですよね。大津日吉神社の旧宮は現在地よりも北。椋天神があったのは天神の森だとすると、現在地よりも南だから・・・古宮に勘定して、加藤清正が天神の森に移したってこと?

それ以来藩主の崇敬を集め、参勤交代往復の道中安全・武運長久と宿駅道中旅人の安全、大津郷中の五穀豊穣を祈る祈願所・菊池東部地域の総社として崇められてきたようです。

  • 宝暦三年(西暦1751年)藩の書達により藩主江戸参勤上下の節海陸安全武運長久の祈祷を命じ、永例となりて明治維新に至る。
  • 宝暦七年(西暦1757年)三月、合志郡の大社・五穀成熟祈願所と定められ、正月五月九月には盛大且つ厳かに祭事が行われ、明治維新に至る。
  • 明治五年(西暦1872年)郷社に列せられる。
  • 明治四十年九月(西暦1907年)神饌幣帛料共進指定社に列す。

大正11年9月5日夜、火災で神殿・幣殿・拝殿・摂社皇大神宮社等の御社殿焼失、(琴平社・参籠舎は火災を免れる)してしまい、新しく社地を十文字山東嶽城祉(舞鶴城とも云う)の現在地に移し、昭和3年4月18日御遷座祭を行ったそうです。

神社は上井出(堀川)からつつじの園を登ってゆくと、息切れするくらいの高台にあるので、眺望は抜群に良かったですよ。

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