辺田見若宮神社 (御船町)

辺田見若宮神社 は御船町の神社です。古い歴史を感じる事ができる。そして伝承的にも歴史は相当古い。

辺田見若宮神社 はこんな神社です

辺田見若宮神社 の 歴史・伝承

第13代成務天皇13年に 阿蘇惟人 神武天皇の孫である健磐龍命・阿蘇都媛命・若彦命を祭礼した。
今からおよそ1800年前のとされているそうです。西暦200年頃って卑弥呼の時代だっけ?

また、阿蘇惟人というのは、彦御子神(ひこみこ)のことで、健磐龍命の孫、つまり速瓶玉命の子供ですね。

天文の頃、御船城主となった甲斐宗運は信仰心が厚く境内に行幸して競馬・猿楽を催し還幸の際は神馬或いは随兵の供奉をしたそうですが、その後、御船地方を支配した小西行長(キリシタン大名)の兵火のため社殿や記録等は全て焼失してしまったという。※キリシタン弾圧の歴史と小西行長による神仏破壊はセットで知っておきたいが神仏破壊って具体的にはどんな事があったのだろうか。

その後の記録として、1604年11月、1704年7月に建て直したことが記されている。

ところで、善悪を問うわけではないが、崎津集落とか島原の乱などの話を聞いていると、安土桃山〜江戸期において、キリシタンが弾圧された話は聞くのだけど、キリシタンも結構なことしてるんですよね。天草の神社も結構やられてるんじゃないかと。

鯰(なまず)伝説

ところで、辺田見若宮神社 のある御船町には鯰伝説が伝わっています。内容は以下の通り。

1732年御船川の大洪水で社殿もろとも御神体が流された。氏子達は大変心配したが9㎞下流の嘉島町犬渕に住む大鯰がお救い申し上げた。氏子達は大喜びし早速御神体をお迎えに行くことになった。

女だけで行くことになり女の足ならば時間がかかると餅をついてお迎えしようと準備にかかった。

しかし急にお迎えが男に変更になり餅をついていては間に合わないと蒸かしたもち米に色を付けてお供えしお祝いをしたそうである。(現在の赤飯)

その事から今でも例大祭では餅ではなく赤飯をお供えしている。神社周辺の氏子達は鯰を食べると罰があたるとして鯰を食べない。

皮膚病の「白なまず」は紙に鯰の絵を描き祈願後、鯰の絵を枕に敷いて寝ると治癒するともいわれている。 

辺田見若宮神社 の御祭神

辺田見若宮神社 の境内社

辺田見若宮神社 の境内・参道

辺田見若宮神社 には立派な随神門があります。これは平成25年にリニューアルしたもの。
長年神門がないから戦争や災害が起きるんじゃないだろうかと、住民が不安がるものだから、近隣の富豪が明治元年9月に費用を惜しまず杉木造り瓦屋根の随神門を建立したのだそうです。

辺田見若宮神社の祭事・神事など

  • 6月の大祓い祭り
  • 10月秋祭り(宮相撲)
  • 12月大祓い祭り

辺田見若宮神社の御朱印

辺田見若宮神社へのアクセス

駐車場あり割と広い