渡鹿堰・大井出
toroku weir
渡鹿堰ってすごい。景観がどうのこうのというスポットではなくて、加藤清正公のまちづくりの緻密さを本当に感じる場所でした。
この歴史ある堰は、白川の流れをせき止め、熊本平野に水を供給する重要な役割を果たしてきました。特徴的なのは、川に対して斜めに突き出たその形状で、当時の高度な土木技術の高さを物語っています。水害や自信などの被害を受けるたびに修復され現在もなお、農業用水を供給するなど、その機能は失われていません。清正公が神様になった理由がよく分かる。そんな遺跡です。
渡鹿堰へのアクセス
- 交通
産交バス 渡鹿6丁目 停留所 徒歩7分程度 - 所在地
熊本市中央区渡鹿6丁目 渡鹿菅原神社 裏 - 駐車場
なし
渡鹿堰について
まずは現地の由来書などを紹介する
渡鹿堰由緒書
慶長年間(1596~1615)熊本城主 加藤清正公は産業発達の為の一手段として用水路を考案され白川水系最大の水利施設の渡鹿堰を作られた。この水は (一の井手・二の井手・三の井手)渡鹿から出水・画図・春竹・田迎・世安方面の水田地帯へとうるおされ1083ヘクタールの広範囲にわたり渡鹿堰土地改良区を組織して現在に至っている。当時よりおいしい肥後米が生産され肥後の人々によろこばれたのである。毎年1月11日に水源祭が行われている。 昭和六十年二月吉包 宮司 黒川親弘
渡鹿堰と大井手の築造
白川では、流路変更や多くの堰など治水や利水施設が造られましたが、渡鹿堰、大井手も白川の水を田に潤すため、加藤清正公の手により慶長十一年から十三年(1606年〜1608年)に築造されました。造当時の面積で、1,083haの水田に用水を供給する白川水系最大の利水施設です。渡鹿堰は、白川が平野部に入る直前の渡鹿に堰を造り、白川左岸を開削して大井手へと取水しています。この堰の特徴は、堀が川に対して斜めにつきだしていることで、これにより洪水時の水の勢いを削ぎ、通常時は少ない水を効率的に取水できるようになっています。大井手は、渡鹿堰から取水した水を流す農業用水路で、渡鹿、大江、新屋敷を流れて安已橋の下で再び白川に合流する全長2.6kmの幹線水路です。 途中、一の井手、二の井手、三の井手の三つの分流が設けられ農業用水として利用されています。
大井手と一の井手、二の井手三の井手の役割
幹線水路の大井手は、途中で三つの井手に分流しています。一の井手は約6.5km、二の井手は約6.4km、三の井手は約6.6kmの長さで、熊本市南部の農地約250haを潤す現役の用水路として利用された後、加勢川に注いでいます。この水が、熊本のおいしいお米を作る源となっています。
世界かんがい施設遺産:白川流域かんがい用水群として、2018年(平成30年)8月に登録されている。
また熊本水遺産・渡鹿用水としても登録されている。
こんな感じでお地蔵さんが安置されているのは、水による災害を鎮めるためでしょうか。説明によると渡鹿堰の角度は、農業用水を取り込むだけではなく、洪水対策の役目も果たしていたという。清正公による徹底した治水と灌漑は水害による直接的な損害を減らし、収穫量UPによる人々への救済を含め計り知れないものがある。領民たちも大変な土木事業だったと思うけど、ちゃんと自分たちや子孫のためになっとるね
早鷹天神と井島玄蕃のお話
ちなみに渡鹿堰を作る際の逸話がある。加藤清正公が渡鹿堰を造る際、水源探しに苦労し、地元の豪族・井島玄蕃に相談しました。玄蕃は神頼みとして、早鷹天神(水分神社・渡鹿菅原神社の境内社)に30日籠もったそうです。そのときのお告げにより、最適な水源を発見できたという伝説が残っています。このことから、早鷹天神は渡鹿堰の守護神として祀られるようになったのです。
この話は熊本市役所のHPで早鷹天神(はやたかてんじん)と渡鹿堰(とろくぜき)という子供向けのコンテンツで紹介されているのだが、井島玄蕃の事がよくわからない。井島玄蕃は熊本の豪族で井島山に城を構えていたらしいけど、その井島山は渡鹿井島山緑地あたりのことなんでしょうね。
参考サイト
熊本市キッズページ:早鷹天神(はやたかてんじん)と渡鹿堰(とろくぜき)
渡鹿堰の沿革
年月 | 出来事 |
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161?年 / 慶長年間 | 渡鹿堰完成 |
1953年 / 昭和28年 | 6.26の大水害で被害 |