天草郡苓北町にある富岡城。
平成27年に一度だけ訪問したことがある。 何も知らずに下田温泉に余暇を楽しむつもりで苓北町方面にむかって、これもたまたま富岡海水浴場に立ち寄ったときに目に入ったのがきっかけでした。
見晴らしの良い城跡です
お城は富岡半島のほぼ北端にあり、昔からあった富岡港を見下ろすようにそびえ立っています。下から見上げてもなんか攻め応えがありそうな、その手のファンの方には垂涎のロケーションだと思います。実際の写真をご覧ください。
当時はある程度のところまでマイカーで登城して本丸〜二の丸みたいなところまでは徒歩で登る感じでした。最近は観光利用しているので、少し事情が異なるかもしれません。
平成6年から城の発掘・復元が計画され、国立国会図書館に蔵される「肥前甘艸富岡城図」を基本資料として、本丸に復元作業が行われました。平成17年3月復元作業が終了。本丸の櫓は展示施設「富岡ビジターセンター」として、天草の歴史・文化・自然などを紹介されてます。
ギャラリー
沿革
築城までの経緯
築城の発端は関ヶ原の戦い(慶長5年:1600年)で、西軍に与した小西行長の領土(天草郡天草郡4万2千石)を東軍に与した唐津城主・寺沢広高に与えた。コレが慶長6年(1601年)のこと。肥前唐津は、天草の苓北町一帯を統治するには少し遠すぎたので、寺沢広高は慶長7年〜同10年にかけて富岡城を築き城代を派遣することになります。
島原・天草一揆
ところが、寛永14年10月28日(新暦1637年12月14日)、藩による重税とキリシタン迫害に耐えられなくなった天草の領民は島原・天草一揆に呼応。天草四郎を盟主として蜂起し、島原・天草一揆が始まった。
富岡城代の三宅籐兵衛は1,500人の唐津藩兵を率いて、本渡に出向き一揆軍と戦闘に至るも数に勝る一揆軍により11月14日(新暦12月30日)に三宅籐兵衛は討ち死にした。11月19日(新暦1638年1月4日)、一揆軍は富岡に迫り城下町と城を攻撃した。城代に代わり原田伊予の指揮のもと、猛攻に耐え11月25日(新暦1638年1月10日)には一揆軍を撤退させることに成功する。
一揆軍は海を渡り原城に立て籠もる島原の一揆軍と合流し、天草での戦闘は終了した。寛永15年2月28日(新暦1638年4月12日)、原城に立て籠もった一揆は鎮圧された。
山崎家治時代
一揆の勃発を許した寺沢堅高(唐津藩2代藩主)は天草郡を没収され、天草郡4万2千石は山崎家治に与えられることになる。
備中国成羽城より入城し富岡藩が成立した。家治は入封すると早速、城の改修に着手した。百間塘と呼ばれる土手道を整備し、袋池を構えて内堀の代わりとした。また、大手門を造営した。寛永18年(1641年)城の改修が終了したが、この年に家治は讃岐国丸亀城に転出となった。
天領第一期〜鈴木時代
天草は寛永18年以後は寛文4年(1664年)まで天領とされ。 初代代官として鈴木重成が承応2年(1653年)まで務めた。重成は天草郡の石高4万2千石は過分であり半減すべきであると訴え江戸で切腹した。重成の後は子の重祐が継いだが13歳と年少であった為、明暦元年(1655年)甥の重辰が天領代官を継ぎ寛文4年まで務めた。
富岡藩〜戸田時代
寛文4年、三河国田原城より戸田忠昌が2万1千石(鈴木代官の尽力の結果)で入城し再び富岡藩が立藩。城の維持管理が領民への負担を強いていると感じた忠昌は、三の丸に藩庁を残し、本丸・二の丸を破却し廃城とした。 これは「戸田の破城」と呼ばれ、良策として後世に評価された。廃城となった後は三の丸が陣屋(富岡陣屋)として残った。
破城の翌年の寛文11年(1671年)忠昌は「天草は永久に天領であるべき地」と主張し認められた。忠昌は奏者番兼寺社奉行となった当日に関東へ転封となり、以後、富岡城三の丸は明治維新まで天領代官所(天草代官所)として機能した。
天領第二期
明治元年(1868年)には天草県となり、代官所は県庁となったが間もなく長崎府に編入され、廃藩置県の時の明治4年(1871年)には八代県に編入、さらに白川県、熊本県に編入された。遺構として鈴木家の墓所がある端林寺には代官所正門が移築現存している。
概要
関連HP:https://www.t-island.jp/p/society/detail/320
〒863-2507 熊本県天草郡苓北町富岡2240
熊本県富岡ビジターセンター・富岡城:0969-35-0170
富岡城 二の丸駐車場