前回の記事、 肥後支配の歴史 第1回「律令国家『肥後』の設計図・十四郡の成立と中央が夢見た辺境の理想郷」 では、大宝律令によって設計された、14郡からなる「大国・肥後」の枠組みについて解説しました。

しかし、地図上に線を引くだけでは人は動きません。 第2回となる今回は、都から派遣された期間限定のエリート官僚である国司と、地元に根を張る永住型のボスである郡司の間に勃発した、約250年にわたる統治権争いのドラマを追います。

1. 大宝律令の野望:現場への重圧(701年〜)

前回触れた通り、中央政府は火の国を解体し、14の郡からなる肥後国を誕生させました。 広大な面積と高い農業生産力を誇る肥後は、全国でも数少ない大国(たいごく)に格付けされました。これは名誉であると同時に、都から「西日本最大級の税収」を期待されたことを意味します。

この過酷なノルマを達成するために都から送り込まれたのが国司であり、その手足となって働かされたのが地元の元王たち、すなわち郡司でした。

2. 国司の攻勢:「法」と「技術」で民を掴む

初期の国司たちは、単なる徴税官ではありませんでした。彼らは最新の土木技術と法知識を武器に、在地豪族(郡司)を介さずに直接農民を掌握しようと試みました。

その象徴といえるのが、肥後国司として赴任した道君首名(みちのきみのおびとな)です。 彼は味生池(あじうのいけ)をはじめとする大規模な灌漑施設を建設し、荒れ地を豊かな水田へと変えました。

これは単なる善政ではありません。水を管理することは、農民の生殺与奪の権を握ることを意味します。「郡司に従うより、国司(国)に従った方が豊かになれる」。そう農民に思わせることで、彼は旧来の豪族の影響力を削ぎ落とし、律令国家の理想である公地公民を実現しようとしたのです。

その後、9世紀に入ると高倉殿継(古代朝鮮の渡来人の系譜?)藤原村田(藤原南家)といった実務派の国司たちが続き、開発から維持管理へとフェーズを移しながら、法の番人としての統治を強化していきました。

3. 郡司の抵抗:「血縁」と「現場」に根ざす実力者

一方、国司の下で働く郡司たちも黙ってはいません。彼らの多くは、阿蘇氏や天草氏といった、かつての国造や有力豪族の末裔です。彼らは看板を「王」から「郡司」に掛け替えただけで、その土地における支配力は健在でした。

特に阿蘇郡を支配した阿蘇氏は、最強の矛と盾を持っていました。 彼らは郡司という行政官であると同時に、阿蘇神社の大宮司という宗教的指導者でもありました。

国司殿は数年で都へ帰られるが、我々はこの土地で先祖代々生き、これからも生きていく」。 この圧倒的な時間軸の違いと、神を祀るという精神的な権威により、彼らは中央からの介入を巧みにかわし、半ば独立した勢力を維持し続けました。

4. 構造的対立:「直接管理」か「丸投げ」か

国司と郡司の間には、決定的な情報の非対称性がありました。 都から来た国司は、書類上の数字しか知りません。しかし、現場の郡司は「どこに隠し田んぼがあるか」「どの家が実質的な労働力を持っているか」をすべて把握しています。

国司は効率的に税を吸い上げようとしますが、郡司は自分たちの取り分や地元の利益を守るため、情報を操作し、のらりくらりと抵抗します。 表向きは主従関係にありながら、水面下では税と土地を巡る静かな戦争が250年にわたり繰り広げられました。

5. 終幕:システム崩壊と武士の足音(〜10世紀)

10世紀に入ると、律令という理想のシステムは機能不全に陥ります。 国司は統治を諦めて「決まった税さえ納めればよい」という徴税請負人(受領)へと変質し、郡司たちは自らの土地を武力で守る在地領主、すなわち武士へと姿を変え始めました。

承平・天慶の乱に代表される反乱の頻発は、中央の描いた設計図が完全に破綻したことを告げる狼煙でした。 「法」ではなく「力」が土地を支配する時代へ。肥後は中世という混沌、そして群雄割拠の時代へと突入します。

よくある質問

Q 道君首名(みちのきみのおびと)は現在でも知られていますか? A はい、彼は「肥後開発の祖」として現在でも熊本市内の神社に祀られています。彼が作った灌漑システムの基礎は、形を変えて現代の農業用水にも活かされており、その功績は神格化されています。

Q なぜ国司は言うことを聞かない郡司をクビにできなかったのですか? A 郡司の協力なしには、実際の税収(米の運搬や徴収)が不可能だったからです。また、郡司は法的に世襲が認められるケースが多く、地元住民への影響力も絶大だったため、国司といえども無下に扱うことはできませんでした。

Q この時代の「武士」とはどのような人たちですか? A 元々は郡司を務めていた地元の有力者や、任期を終えても都へ帰らずに土着した元国司の子孫たちです。彼らは自分たちの土地(名田)を自力で守るために武装し、やがて武士団を形成していきました。

シリーズ:肥後支配の歴史

序章:肥後国誕生への道(本記事) 古代王国の解体から、鞠智城の築城を経て、701年に「肥後国」が成立するまでの軌跡。

② 肥後国府の誕生と、在地豪族たちの生き残り戦略(次回公開予定) 中央から送り込まれる国司と、地元を熟知する阿蘇氏らの郡司。そのパワーバランスを深掘りします。