前回の記事、 肥後支配の歴史 第2回「国司対郡司・エリート官僚と地元ボスの静かなる250年戦争」 では、中央派遣の国司と地元ボスの郡司による、法の枠組みの中での主導権争いを描きました。

しかし、10世紀後半に入ると、この争いは法の範疇を超え、土地の所有権そのものを巡る混沌としたフェーズへと突入します。 第3回となる今回は、中央貴族の地方離れと荘園の拡大により、肥後国がいかにバラバラに解体されていったのか、その実態を俯瞰します。

1. 遥任(ようにん):都の享楽と引き換えに捨てられた地方

平安時代中期、都の公家たちの関心は国家運営から「都での暮らしを謳歌すること」へと完全に移っていきました。彼らにとって、文化の香りもない地方へ赴任することは、社会的な死を意味しました。熊本人としてなんかムカつく!

そこで生まれたのが、国司に任命されても現地へ行かず、都に居ながらにして収入だけを受け取る遥任という形態です。 彼らにとって肥後は、自らの贅沢な暮らしを支えるための財布でしかありませんでした。責任者が不在となった肥後では、実務を丸投げされた代理人(目代)が、本官への送金と自分の取り分を確保するために、かつてないほど苛烈な徴収を行うようになります。

2. 公領と荘園:徴税権を巡る二つの世界

国司(の代理人)による搾取から逃れるため、肥後の土地のあり方は大きく二極化していきました。

公領(国司の支配地)

国司(受領)が直接税を徴収する土地です。過酷なノルマが課せられたため、耐えかねた農民が耕作を放棄して逃げ出すケースが相次ぎ、荒廃が進みました。

荘園(有力者の私有地)

地元の郡司らが、名目上の所有権を中央の有力貴族(藤原氏など)や大寺社に寄進した土地です。 最大の利点は不入の権です。これにより、国司の徴税官は荘園内に立ち入って調査や徴収をすることができなくなりました。

項目公領(国司の支配地)荘園(私有地)
税の性質ノルマ制(受領の私得が優先)契約制(一定の年貢)
透明性極めて低い。受領のさじ加減で増える。比較的高い。寄進先との契約で決まる。
追加徴収臨時の「臨時雑役」や強制労働が多い。契約外の徴収は原則として拒否できる。
安心感毎年「今年はいくら取られるか」と怯える。収穫の一定割合を納めれば、残りは自分のもの。

当時の国司(受領)は、都へ納める規定額さえクリアすれば、「余った分はすべて自分の給料」にできました。そのため、任期の数年で一生遊んで暮らせる富を築こうと、法を無視したムチャな取り立てが横行したのです。

こうして肥後の地図は、国司の力が及ぶ公領と、手出しができない荘園が複雑に入り混じり、一国のルールが通用しないモザイク状へと変貌しました。

肥後国内でも、場所によって「どちらがより苦しいか」の状況は異なりました。

1. 平野部(飽田郡・託麻郡など:現在の熊本市周辺)

  • 状況: 国府に近く、最も「公領」が維持されたエリア。
  • 実態: 国司の目が届きやすいため逃げ隠れができず、最も過酷な搾取の対象となりました。この地域の農民が、重税に耐えかねて山間部へ逃げ出したり、有力な寺社に土地を寄進して無理やり荘園化させたりする動きが最も激しかった場所です。

2. 山間・辺境部(球磨郡・葦北郡など)

  • 状況: 国府から遠く、管理が不十分。
  • 実態: 国司の力も及びにくいですが、同時に「有力貴族の保護(荘園化)」も受けにくい場所でした。そのため、受領が派遣した荒っぽい「目代」が直接乗り込んできて、暴力的な略奪に近い徴収が行われることもありました。

3. 神領・権威の及ぶ場所(阿蘇郡など)

  • 状況: 郡全体が阿蘇神社の支配下に近い。
  • 実態: ここは「神の土地」という最強のバリア(荘園的権利)があったため、受領といえども迂闊には手を出せませんでした。肥後の中で最も安定し、税の予測が立つ地域だったと言えます。

3. 肥後国・勢力分割の概観

寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇の直前、肥後は以下のような勢力が入り乱れる状態となっていました。

北部エリア(菊池郡・山鹿郡など)

有力な荘園が点在し、中央から下向した藤原氏の血を引く勢力(後の菊池氏)が在地勢力と結びついて武士団化。受領の支配に実力で対抗し始めます。

中部エリア(託麻郡・飽田郡など)

国府が置かれ、公領が多く残るエリア。一方で、権威ある寺社の荘園も入り交じり、国司側と在地側の利害が最も激しくぶつかり合いました。

東部エリア(阿蘇郡)

阿蘇神社を中心に、郡全体が神領(荘園)としての独立性を強める。宗教的権威を盾に、国司の介入をほぼ完全に排除した独自の統治圏を築きました。

南部・西部エリア(八代・天草・葦北)

海外交易の利権が絡むため、受領側が必死に利権を確保しようとする一方、海人族の末裔たちがこれに反発。自衛のための軍事集団(水軍)が形成されました。

4. 刀伊の入寇(といのにゅうこう):外圧がもたらした武士の自覚(寛仁3年:1019年)

寛仁3年(1019)年、内部分断された肥後を揺るがす大事件が起きます。刀伊と呼ばれる女真族の海賊船団が九州北部に襲来しました。

中央の朝廷が対応に手間取る中、大宰府の藤原隆家は、九州各地の武士たちに独断で動員をかけました。 肥後の武士たちも、国のためというよりは、自分の土地を守るためにこの戦いに参加しました。

この戦いは、それまで「私的な暴力」とみなされていた武士の力が、国を守る「公的な実力」として認められる大きな転換点となりました。

5. 結び:中世への扉が開く

刀伊の入寇を撃退したことで、肥後の武士たちは「自らの力で土地を守り、国をも守る」という新たな自覚を持ちました。

国司による一括統治が崩壊し、徴税権がバラバラになったからこそ、各地域で自衛のために進化した武士団が、次の時代の主役へと躍り出ることになります。

よくある質問

Q 公家たちはなぜそんなに地方に関心がなかったのですか?

A 当時の都では、洗練された儀式や和歌、恋の駆け引きこそが価値のすべてでした。地方は「野蛮な場所」として忌み嫌われており、赴任することは出世コースからの脱落を意味したからです。

Q 荘園を寄進された貴族は、何もしなくても儲かったのですか?

A はい。地元の管理者が「名義を貸してくれたお礼」として、収穫の一部を年貢として送ってきました。これが、都での華麗な暮らしを支える主な資金源となりました。

Q 刀伊の入寇の後、肥後の統治はどうなりましたか?

A これを境に、国司の権威はさらに低下しました。功績を挙げた地元の武士たちが「自分の土地の正当な支配者」としての地位を強め、後の菊池氏などの大武士団へと繋がっていきます。

シリーズ:肥後支配の歴史

序章:肥後国誕生への道(本記事) 古代王国の解体から、鞠智城の築城を経て、701年に「肥後国」が成立するまでの軌跡。

② 肥後国府の誕生と、在地豪族たちの生き残り戦略(次回公開予定) 中央から送り込まれる国司と、地元を熟知する阿蘇氏らの郡司。そのパワーバランスを深掘りします。