「火の国」という独自の王国が消え、私たちはいつから「肥後」になったのか。 前シリーズでは、ヤマト王権が火の国を解体していく政治工作を追いました。この序章では、西暦528年の磐井の乱から、701年の「肥後国」誕生に至るまでの約170年間に焦点を当て、この地がどのように「日本の一地方」へと作り替えられたのかを紐解きます。
1. 磐井の乱と「火の国」の分断:ヤマトが打った楔(528年〜)
西暦528年、筑紫君磐井の乱の平定後、ヤマト王権は九州支配を盤石にするため、各地に屯倉(みやけ)という直轄地を設置しました。
中でも注目すべきは、尾代(おしろぬ)屯倉です。現在の宇土市から熊本市城南町付近と推定されるこの地は、有明海と平野部を結ぶ交通の要。ここにヤマトの出張所を置くことで、阿蘇、芦北、天草といった独立心の強い在地勢力の連携を物理的に断ち切りました。
「火の国」という一つの大きな塊は、こうして王権直轄地と豪族支配地が混ざり合う、モザイク状の支配体制へと変容していったのです。
2. 聖徳太子の時代と「火の国」の静寂:広大なままの最後の姿
7世紀前半、聖徳太子や蘇我氏が飛鳥で活躍していた頃。まだ肥前・肥後の区別はなく、九州の中央には広大な「火の国」が横たわっていました。 中央で仏教伝来や冠位十二階などの改革が進む中、火の国では旧来の有力豪族である国造が、ヤマトの権威を借りることで地元の秩序を維持するという、束の間の安定期が続いていました。
3. 大化の改新:制度としての「支配」の始まり(645年〜)
645年、乙巳の変。この政変に続く大化の改新は、火の国のリーダーたちに衝撃を与えました。公地公民というスローガンの下、それまで豪族が私有していた土地と人民が、すべて天皇のものとされたのです。
それまでの火の国造たちは、代々の土地を治める「王」から、中央政府の命令を実行する行政官へと性格を変え始めます。これが、後の郡司へと繋がっていく、実務家としての歩みの第一歩でした。
4. 国家の危機:白村江の戦いと国防の最前線(663年〜)
663年、白村江の戦いでの大敗。この未曾有の国難が、肥後の風景を一変させました。唐・新羅軍の侵攻を想定し、九州全土が巨大な防衛要塞へと作り替えられたのです。
鞠智城(くくちじょう)の築城
大宰府を支える兵站(へいたん)基地として、現在の山鹿・菊池の境界に築かれたのが鞠智城です。

この築城を指導したのは、百済からの亡命貴族である答㶱春初(とうほんしゅんしょ)らでした。彼らがもたらした最新の朝鮮式山城の技術は、この地が日本の国防における「最終防衛ライン」であったことを物語っています。
5. 「肥後国」の成立:大宝律令と分国(701年)
そして701年。大宝律令の制定とともに、ついに「肥後国」が法的に誕生しました。あまりに広大だった火の国は、効率的な管理のために肥前と肥後に分割。1300年以上続く私たちの枠組みが、ここに完成したのです。
初代の肥後国司が着任し、二本木(現在の熊本駅付近)に国府が置かれました。かつての火の国の記憶は「肥後」という行政パッケージに詰め込まれ、律令国家の一地方としての歩みが始まったのです。
よくある質問
Q なぜヤマト王権は二本木に国府を置いたのですか?
A 二本木(現在の熊本駅付近)は、坪井川と白川が合流する付近であり、水運と陸路の両方を抑えられる交通の拠点でした。中央から派遣された国司が、徴収した税(米など)を船で運び出し、かつ各地へ命令を伝えるのに最適な場所だったからです。
Q 鞠智城が朝鮮式山城と呼ばれているのはなぜですか?
A 白村江の戦いで敗れた際、日本へ亡命してきた百済の貴族(答㶱春初ら)が、当時の最先端だった朝鮮半島の築城技術を伝えたからです。八角形の後楼(うしろやぐら)など、当時の日本の建築にはなかった独特の構造がその証拠です。
Q 肥前と肥後に分けられたことで、人々の生活はどう変わりましたか?
A かつて有明海を中心に一体だった文化圏が、行政的に切り離されました。それぞれの国に異なる国司が配置され、別々に税が徴収されるようになったことで、徐々にそれぞれの地域独自のアイデンティティ(佐賀・長崎側と熊本側)が分かれていくことになりました。
シリーズ:肥後支配の歴史
① 序章:肥後国誕生への道(本記事) 古代王国の解体から、鞠智城の築城を経て、701年に「肥後国」が成立するまでの軌跡。
② 肥後国府の誕生と、在地豪族たちの生き残り戦略(次回公開予定) 中央から送り込まれる国司と、地元を熟知する阿蘇氏らの郡司。そのパワーバランスを深掘りします。

