前回の記事、 肥後支配の歴史 序章「肥後国誕生への道・古代王国の解体と律令国家の胎動」 では、磐井の乱から約170年をかけて、古代王国「火の国」が解体され、律令国家へと組み込まれていく過程を追いました。
701年の大宝律令により誕生した新生「肥後国」。 今回は、中央政府(朝廷)がこの地に引いた新しい境界線と、そこに込められた統治の野望について解説します。かつての王たちが支配した土地は、どのようにして「国家の行政区画」へと生まれ変わったのでしょうか。
1. 「大国・肥後」を構成する十四郡
律令制の導入により、肥後国には明確な行政単位として14の郡(こおり)が設置されました。
- 北部:玉名郡、山鹿郡、山本郡(植木町周辺)、菊池郡、合志郡
- 中部:阿蘇郡、託麻郡、飽田郡、宇土郡、益城郡
- 南部・島嶼:八代郡、葦北郡、球磨郡、天草郡
この「14」という数字には、当時の政治的な重みが隠されています。 当時の日本は約68の国に分かれており、1国あたりの平均郡数は約9郡でした。隣の筑前や筑後でも10から15郡程度ですが、肥後は広大な面積と圧倒的な農業生産力を兼ね備えていたため、全国的にも数少ない大国(たいごく)という最高ランクに格付けされました。
朝廷にとって、ここを14のブロックに細分化して管理することは、西日本最大の税収源を確保するための最重要プロジェクトだったのです。
2. 「大宰府」と「肥後国府」:二つの首都の役割
当時の九州には、二つの重要な拠点が機能していました。 一つは福岡に置かれた大宰府。外交と国防を担う西の都であり、九州全体を統括する、いわば「九州政府」です。
そしてもう一つが、地域行政のセンターである肥後国府でした。 現在の熊本市二本木周辺などに置かれた国府は、大宰府の指揮下にありながら、肥後一国の徴税、裁判、戸籍管理を一手に担いました。
国府は、都(平城京)のミニチュアとして設計されました。瓦葺きの役所が立ち並び、整然とした区割りがなされ、都から派遣されたエリート官僚たちが最新のファッションや言葉で闊歩する。 当時の地方民にとって、国府は単なる役所ではなく、遥か遠くにある「文明」が直接降りてきた唯一の場所として映ったはずです。
3. 消えゆく旧王たち:四つの「国造」の行方
新しいシステムが稼働するということは、古い支配者が役割を終えることを意味します。 それまで世襲で土地を支配していた火の国の四つの国造(くにのみやつこ)たちは、国家の役人へと再編されました。
- 火国造:肥後中心部の支配者
- 阿蘇国造:阿蘇のカルデラ内と信仰の支配者
- 葦北国造:南部・薩摩方面への防波堤
- 天草国造:離島部と海民の統率者
彼らは「独立した地域の王」という立場を捨て、天皇から任命される郡司(ぐんじ)という役職に就く道を選びました。
これは一種の政治的妥協です。彼らは絶対的な独立権を失う代わりに、国家公務員としてその土地の支配権を法的に保証される道を選び、一族の生き残りを図ったのです。
4. 結び:朝廷が目指した「法の支配」の理想
朝廷が肥後という器をこれほど緻密に設計した最大の目的は、一君万民(すべての民は天皇の民である)という理念の具現化にありました。
かつて荒ぶる神々や王たちが割拠した火の国を解体し、14の郡に分け、法(律令)と税(租庸調)のシステムで縛り上げる。これによって、辺境の地まで天皇の威光を浸透させ、安定した富を都へ送り続けること。 それが、律令国家が夢見た理想郷の姿でした。
しかし、紙の上に描かれた設計図通りに人が動くとは限りません。次回は、都から来たエリート国司と、地元を知り尽くした郡司たちの間で繰り広げられた、静かなる権力闘争の物語へと進みます。
よくある質問
Q 肥後が大国(たいごく)に分類されたのはなぜですか?
A 面積が広く、人口が多く、農業生産力が非常に高かったからです。律令制では国の経済力や人口規模に応じて大・上・中・下というランク分けがなされましたが、肥後はその最上位である「大国」に位置づけられ、都にとっても重要な資金源と見なされていました。
Q 国造から郡司になると、何が変わるのですか?
A 支配の根拠が変わります。国造は「一族の血統や神話」を根拠に支配していましたが、郡司は「法律(律令)と天皇の任命」を根拠に支配します。権限は制限されますが、国家という巨大な後ろ盾を得ることができる地位でした。
Q 当時の一般庶民にとって、14郡の成立は何を意味しましたか?
A 自分がどこの誰であるかが明確に登録され、納税の義務が課されることを意味しました。それまでは漠然と地元の豪族に従っていましたが、戸籍に「肥後国○○郡の住人」と記されることで、国家によって管理される存在へと変わりました。
シリーズ:肥後支配の歴史
① 序章:肥後国誕生への道(本記事) 古代王国の解体から、鞠智城の築城を経て、701年に「肥後国」が成立するまでの軌跡。
② 肥後国府の誕生と、在地豪族たちの生き残り戦略(次回公開予定) 中央から送り込まれる国司と、地元を熟知する阿蘇氏らの郡司。そのパワーバランスを深掘りします。

