加藤清正 公
加藤清正 公について
生年月日:永禄5(1562)年7月25日
没年月日:慶長16年8月2日
加藤清正 公 は天正15年(1587年)に肥後半国を、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いの軍功で肥後一国の大名となる。それから慶長16年(1610年)になくなるまでの約24年間で数々の実績を遺し、特に統治機関の長かった熊本市を中心に県北の人々は今でも、清正公を尊敬している。
熊本城の築城や灌漑事業大展開など、実際に現地で撮影した写真などを使いながら清正公と熊本の関わりで学んだことを共有したい。
いろいろ調べてみて見えてきたものは、武よりも文に長けていたという、意外な実像であった。
加藤清正 公の生涯
秀吉の子飼いになるまで
加藤清正 公は、永禄5年に尾張国愛知郡中村に、刀鍛冶の加藤清忠と伊都との間に生まれる。3歳で父がなくなり、母と津島の叔父の家に寄寓していた。(清正公5歳説・叔父は母方なの?)同市の妙延寺にて読み書きを覚えたそうだ。
天正3年・清正公が11歳のとき、近江長浜城主になりたての羽柴秀吉の小姓となる。母同士が遠縁の親戚という縁。3年後14歳の頃に知行170石を得る。このころ元服したっぽい。
長浜時代
羽柴秀吉が織田家の重臣としての存在感を放ち始めたこの頃。家中人手不足という状況で、清正公も召し抱えられたのだ。
清正公は「虎之助」この期間に乱暴者を捉えて治安を守り、200石の顔像を受けているという伝承はあるけど、資料として確実に残っているものは19歳(1581年)に120石知行するという話。
播磨・但馬平定
中国攻めに先立って秀吉は、播磨・但馬平定を行うが天正5年。天正8年・清正18歳の頃までは、戦場での活躍はなく中国攻めまで待たなければならない。
この間に、黒田官兵衛や宇喜多直家など優秀な武将が秀吉の麾下になり、勢力は拡大する。
一方で消耗戦でもあり失ったものも多いようだ。
中国攻め
天正9年(1581)山名家に介入する吉川(毛利)家の動きに対抗する形で中国攻めが始まる。これが加藤清正にとっては初陣だったらしい。
鳥取の山名氏は織田方、家臣たちは毛利方に靡いている。そんななか吉川経家(毛利方)が鳥取城に入場し、鳥取城籠城戦が始まってゆく。城内の飢えは言語に絶するほど悲惨なものだった。そして、この戦で二十歳の清正公は初陣を飾ることになる。(公式記録としては)
このときのエピソードに、蜂須賀小六とお城の物見をしたときに、20人くらいの敵兵に囲まれたんだけど、見事に1名を屠り小六と無事に帰還して、秀吉に褒められたって話があるんだけど、これは創作と言われている。
さらに長篠の戦い(1575年)が初陣という説もあるけど、13歳で初陣はあまりにも早すぎる気がする。
翌年に冠山城を攻める。城主は林重真、他にも武井将監なども城に籠もっている。最初は宇喜多忠家が八千の兵で攻めたが反撃にあい撤退。
そのため、秀吉は清正公に城攻めを命じる。天正10年4月25日、お城の北側から突入。早島から救援にきていた、竹井将監と一騎打ちとなる。なかなか勝敗がつかなかったけれども、槍を捨て、太刀で組み伏せて手柄とする。城主の林重真も自害。
備中高松城の近くにあるこのお城は、織田側としてはしっかりと、摘み取っておく必要があったのだろう。
おそらくだが、清正公にとって初めての大将首だったに違いない。
この冠山城は備中高松城に近く、他のいくつかのお城とともに、支城の役割を果たしていた。つまりこのお城を潰しておくことがその後の水攻めを大きく支援することになるのだ。
本能寺の変
天正10年5月に入り、備中高松城の水攻めが始まる。川の流れを変えるような工事を清正公もここで経験する。
備中高松城が水浸しになっている6月2日未明、本能寺の変が起きている。この知らせを受けた秀吉を始め清正公たちはたったの6日間で大軍勢を近畿にもどし、各武将・大名と交渉を行い、13日に山崎の戦いにて明智光秀を打ち取る。
秀吉はこの戦いで、信長の後継者争いの筆頭になるのだが、清正公はまだまだ二十歳そこそこの「近習」であり、冠山城での働きは見事だったものの世間には知られてない存在だった。
賤ヶ岳の七本槍
明智を破り、清須会議(6月27日)で秀吉の思惑通りに三法師(信長の嫡孫)を後継者となると、それに不満をもった柴田勝家との対立が深まる。
小競り合いもありながら、勝家から秀吉へ和平交渉が行われたりもしたが、結果的には本格的な戦いが始まり、天正11年4月賤ヶ岳の戦いで目覚ましい功績を上げた清正公は、後に七本槍と呼ばれるようになる。
これは、秀吉がその生い立ちから譜代の家臣がいなかったので、清正公などを一生懸命宣伝した結果、このように評価されるに至ったと思われる。
実際に敵将・山路正国を討ち取ったりはしている。
近年の研究によると、清正公は先生よりも財務・民生での功績が評価されていたとも言われている。
実際に清正公はこの戦いでは、食料物資の後方支援的な役割を担っていたと考えられている。これで3000石の所領を得る。
それまで、200石とか300石とかだった彼は10倍の俸給を得るまでとなった。清正22歳。
しかし、世の中にデビューをしたはずなのに、清正の活躍はしばらく見られない。織田家を継承した(乗っ取った)秀吉は拠点を大阪に置く。清正も周辺に領地をもらったようだ。のだが、この時期の清正の動きはよくわからない。
天正12年に小牧・長久手の戦いに参加した様子は確認できているらしいが、翌年の紀伊攻めや四国攻めの参戦記録などは確認できていない。
つまり、後方支援に回っていたのではないかと思う。福島正則や石田三成、小西行長はすでに活躍しているので、この三名に比べると清正の出世の初速は遅かったのかもしれない。
しかし、天正14年には従五位下・主計頭となるので、名実ともに秀吉子飼いの武将として世の中にデビューしたんじゃないのかと。
また前年には父を弔うための本妙寺を大阪に建立している。領地も数百石単位で追加されているので、それなりの功績を秀吉に認められていた事はわかる。
薩摩の島津軍が全九州を制圧する勢いだった時期に、九州征伐が本格する。
天正15年3月1日大阪を出発した秀吉。清正の手勢は170人ほど、ライバルの福島正則は1200人だったらしく、ちょっと熊本人としては悔しい。
4月11日に秀吉は南関に到着。おそらく清正も同時期に肥後の土を踏んだことだろう。5月8日島津が降伏するまで従軍します。
ここでも清正は戦場の最前線ではなく、後方支援とか戦後処理を引き受けていた。
戦場で派手に活躍する人を裏側から支えるという役目を忠実に果たすことで、秀吉政権の中で彼は遅れながらも確実に出世をすることになる。
肥後入国
天正16年(1588)、佐々成政によって引き起こされた肥後国衆一揆の結果、戦後処理で福島正則や小西行長とともに、宇土・八代・芦北・天草の検地を行う。隈庄城(南区城南町)の城番を引き受けてようだ。ちなみにこの頃から肥後の北半分の19万5千石を与えられる。清正公は27歳。
清正公が27歳で肥後藩国の領主になった。世襲でもないのだから驚きである。いわゆる秀吉子飼いということも評価に入るかもしれない。でも清正公は、先の肥後国衆一揆の鎮圧後の肥後でもっとも実務をこなした人物の一人であったことが、大きな理由だろう。同じ理由で小西行長も南半国の領主となったのも同等の理由かと思われる。
とはいえ、この天正17年には 天草五人衆 が一揆を起こす。小西行長の宇土城普請の要請に反発したのだ。秀吉の命で行長は討伐を試みるが、大敗。清正公が援軍を出す。木山弾正という武将と一騎打ちしたりしながら戦いは続くのだが、11月末にはなんとか決着したという。
秀吉は、行長と清正公に何事も相談して肥後を統治するように指示していたそうだ。そんなわけで、一揆が起きた当初から、素直に援軍を頼んでたようだ。
しかし、清正公本人の参戦は拒否していた。なぜならば、肥後の領主が二人揃って、居城を留守にするわけにはいかんと、行長が遠慮したんだけどねって話もある。しかし、清正公は強引に天草へ。
肥後国衆一揆の結果、佐々成政が腹を切ったことを考えると、清正公も天草の一揆は見過ごせない出来事だったと思われる。
清正公の国造り
さて、天草一揆の鎮圧の後、清正公は国造りを本格的に進める。
まずは家臣団の形成。数千石の身代から19万石の大名になったのだから、2000〜3000の家臣が必要になる。国衆や佐々成政の遺臣なども大量に採用している。
また大阪・京都と熊本を忙しく往復しながら、城下町の町割りをすすめたり、熊本城(古城?)に関する指示を出したりしている。
その間、肥前名護屋城の普請も引き受けている。一緒に小西行長・黒田長政なども普請係を努めている。
そう天正20年から朝鮮出兵が始まる。一回目が文禄の役で小西行長とともに先陣を務めた清正公は大活躍。この活躍が大河ドラマで主人公になれない理由らしい。(裏は取ってない)
4月17日第二軍として渡航。18日に釜山浦に上陸。5月5日には漢城(現在のソウル)に入場。
朝鮮出兵はあくまで「明」征服の準備なのだが、この日本軍は即時侵攻するのではなく、まずは朝鮮の安定統治を目指すことになる。
朝鮮を8つに分割して統治する。「八道国割」と呼ばれるそうだ。清正公は、北東部の咸鏡道(ハムギョンド)を担当することになる。小西行長は北西部の平安道というところらしい。Googleマップなどで場所を確認すると、どちらも朝鮮半島の奥地であることがわかる。
加藤清正は現地で二人の王子の身柄を確保したんだけど、その背景として、反王勢力の協力によると言われている。
そして7月末には明国に攻め入るルート視察まで行っている。しかし、やはり短期的に優勢だった日本軍も長期化する中で朝鮮の統治も明への進軍も「現実的ではない」と考え始める。
実際に、明軍も半島に進軍してくるし、必死な地元の抵抗にも遭い、日本軍は劣勢に陥っている。
文禄2年1月には小西行長が撤退をはじめ、どんどん南下する。清正公は咸鏡道にこだわってたけども、流れに従わざるを得なくなる。この辺りが小西行長との確執にもつながってるかもね。
3月は漢城に日本軍の諸将が集まって、朝鮮半島南部を守り抜くという方針に落ち着く。そんななか小西行長は明国との和平交渉を始める。
文禄4〜5年あたり清正公は日本にもどっている。地震加藤の逸話もこの時期のこと。ただし、このエピソードは嘘ということがわかっている。
しかし、なぜ、加藤清正は日本に戻っていたのか。小西たちの和平交渉に対して、統制が取れない清正公がじゃまっだったので、秀吉が呼び戻したのだとか。
しかし、明国との交渉は決裂し、清正公は再び海を渡る。慶長元年11月のこと。
今回の遠征で清正公は、浅野幸長や宍戸元続らと蔚山城を築城。日本と朝鮮の民衆を酷使する結果になっている。
その上明国から30万の大軍が押し寄せてきて、熾烈な籠城戦が始まる。も、慶長三年の秀吉の死により終息に向かってゆく。清正公は37歳。
清正公は蔚山城の在番として居残りをしている。講和の交渉ルートを独自に模索していた様子があるらしい。
そんな中、慶長3年8月18日豊臣秀吉没。しばらく秀吉の死を日本軍にも朝鮮側にも秘匿している。こういうのが子飼いの清正にも不満だったことだろう。10月には徳永寿昌と宮木豊盛が日本からやってきて秀吉の死を告げられることになる。
それから清正公は講和交渉の責任者になっている。がしかし、清正公は具体的に交渉を行わなかったと言われている。
とはいえ、徳川家康から黒田長政と相談して戻ってくるように指示があったり、普通に一軍の将として一にも早い撤退を、七年に及ぶ戦役に終止符を打つ必要がある。
慶長3年師走、島津や小西にも救援が必要だったけど、清正公は自軍を優先して帰国している。
日本に帰ってきた清正公は戦役で疲弊した肥後国の再建に取り掛かる必要もあり、豊臣政権の今後を守っていくことだった。
関ヶ原
ここから天下分け目の関ヶ原に向けて日本の大名・武将がこぞって駆け引きを始めるのだが。。。清正公はこの朝鮮の役で疲弊した肥後の民を慰撫するために、数年間の年貢や諸役を免除したという。実際にどうかはわからないけど、百姓も非戦闘員として物資輸送などに従事していた。国元も経済的に7年に及ぶ戦役を支えてきたのだから、相当な状況だったと思われる。家臣団も多く戦士したので、再構築が必要だったらしい。
その間、伏見城の豊臣秀頼に挨拶している。名目上、五大老と五奉行が合議的に政治を行っている間、加藤清正はどんな立ち位置だったのかなと思う。家康の養女を正室に迎えている。
中央政局は激しく回転するなか、家康が上杉征伐で大軍を動かすと中央では石田三成が挙兵。お互い、ここまでは台本通りなんだろうね。
清正公は九州で東軍の立場で軍事行動を起こします。剤九州の東軍は、黒田如水、細川家の松井康之・有吉立行などがいる。関ヶ原で衝突がおきた慶長5年9月15日のタイミングで清正公は文語の大友と戦う。細川家の松井・有吉軍の救援を目的としている。
しかし救援の必要がなくなると、宇土城へ軍を向ける。9月20日からボチボチ戦いが始まるが、決戦の地では決着がついてる。9月28日黒田如水から戦勝の知らせを受けるが、宇土城の陥落は10月15日頃になる。その後、柳川の立花宗茂を攻める。11月に入ると島津領へ進軍を開始するが、小競り合いで戦闘は終了。
九州の関が原は11月末までには終わっていたようだ。
慶長5年12月、戦勝報告と念頭祝儀の為に上方へ。
論功行賞で、相良氏の領地を除く肥後一刻を安堵されるが、関ヶ原直前には筑後も貰う約束だったようだ。清正公はこれは大して不満には思わなかった。家康ならそういう事すると思ってたんだろうね。ちなみに天草に関しては唐津藩のものとなるので、かわりに、豊後の三郡(海部郡・大分郡・直入郡)を手に入れたようだ。
これで54万石の大身となった清正公はこの頃から熊本城を本格的に築城していると思われる。以前の隈本城があるので、どっちがどっちなのか資料では判断しづらいこともあるので、はっきりいつからいまの熊本城を築城したのかがわからないとか。
関が原の結果、豊臣家の領地は65万石にまで削られたんだけど、政治的な地位は徳川家と並ぶほどのものだったらしい。
それ故に家康も孫娘を秀頼に嫁がせたり融和を図っている。
そんななか二条城で家康と秀頼が会見するんだけど、同席した清正公はかなりホッとしたのかな。慶長16年6月24日熊本城で没する。
年表
年月日 | 出来事 |
---|---|
永禄5(1562)年7月25日 | 加藤清正 公誕生 |
天正12年 | 小牧・長久手の戦いに従軍? |
天正15年 | 肥後国衆一揆勃発⇢戦後処理で肥後入り |
天正16年 | 27歳で肥後藩国の領主となる |
天正17年 | 天草一揆の鎮圧 |
天正20年・1592年 | 朝鮮出兵・文禄の役(文禄2年まで1593年) 3月13日秀吉陣立て発表。 4月17日第二軍として渡航。18日に釜山浦に上陸。5月2日には現在のソウルまで北上する。 |
文禄2年・1593年 | 清正は撤兵 |
慶長3年・1598年 | 秀吉・没 12月ころまでに挑戦から撤兵 |
慶長4年・1599年 | |
慶長5年・1600年 | 関ヶ原の戦い(九州を転戦) |
慶長6年・1601年 | |
慶長12年・1607年 | 熊本城完成 |
慶長16年・1611年 | 清正公没・現在の本妙寺へ |
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熊本城
日本三名城の一つで清正公の手によるものでは最も有名かもしれない。
馬場楠井手
清正公による治水事業の中でもその知恵の深さに下を巻かざるを得ない
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