壽福寺跡

寿福寺は、824年(天長元年)に開山されたと伝えられる歴史ある寺院です。天台宗に属し、高瀬地域の五つの寺院の一つとして数えられています。また、繁根木八幡宮の神宮寺としての役割も担っていました。

江戸時代の絵図には、立派な楼門が描かれており、寺院の規模の大きさをうかがわせます。しかし、現在の楼門の正確な位置については、まだ解明されていない点が多く残されています。

壽福寺跡へのアクセス

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壽福寺跡の説明板

由来板から文字起こし

天台宗繁根木山壽福寺は、平安時代のはじめの開山です。 べつぶ きの たか 平安の中ごろ、大野別符(荘園のこと)の地頭紀(大野)隆村がこの地に八幡宮を勧請すると、壽福寺は同宮の神宮寺となりました。

南北朝から戦国時代のはじめにかけて、高瀬に進出した菊池氏一門の高瀬氏は、繁根木八幡宮や「高瀬五ヶ寺」といわれる諸寺を手厚く保護したので、高瀬の町はこの時期いちばんのにぎわいを見せました。

戦国時代、高瀬は龍造寺・大友・島津の争いに巻きこまれ、 壽福寺の仏像や梵鐘さえも持ち去られています。

江戸時代後期、住職となった豪潮は寺の復興に努め、一 字一石塔の造塔、薬師三尊の造立、梵鐘の鋳造など、往時 の名刹にふさわしい姿に戻しました。

明治のはじめに廃寺となった跡地には玉名郡役所が置かれました。

平成17年3月 玉名町校区まちづくり委員会

補足:寿福寺は、明治時代の廃仏毀釈によって廃寺となりましたが、一帯には石造物など多くの痕跡が残されています。このことから、かつては栄えていたことがうかがえます。また、縄文時代から人が住んでおり、弥生時代の集落跡、古墳、神社仏閣などの遺構も見つかっています。江戸時代には玉名郡代、大正時代には郡役所が置かれ、行政の中心地でもありました。寿福寺跡は、玉名地域の長い歴史を物語る場所なのです。

寿福寺の旧本尊は、現在菊池市の聖護寺に安置されている銅造薬師如来像です。この像は、江戸時代後期に豪潮が寺を再興した際に造立されたものです。

中世以降、寿福寺は高瀬地区とともに門前町として賑わっていましたが、戦国時代の戦乱により荒廃の一途を辿りました。龍造寺氏、大友氏、島津氏の争いに巻き込まれ、寺内の仏像や梵鐘などが奪われたと考えられています。

昭和54年に行われた玉名市文化センター建設に伴う発掘調査では、寺院の建物跡は確認されませんでしたが、地下式坑や井戸跡などが複数発見されました。特に、遺物が少ないとされる地下式坑からは、仏具や土器、さらには中国からの輸入陶磁器が出土しました。これらの出土品は、かつての寿福寺がいかに栄えていたかを物語っています。

つまり、寿福寺は中世以降、地域の中心的な寺院として栄え、多くの信者を惹きつけました。しかし、戦国時代の戦乱によってその姿を変え、長い年月が流れました。発掘調査によって、その歴史の一端が明らかになり、かつての栄華を偲ぶことができます。

壽福寺跡ギャラリー

壽福寺 その後

壽福寺が会った場所は正確には判明してなくて、現在地とはちょっと異なる場所にあったとされている。

んで、この隣接地には、玉名郡代詰所跡と簡易教員養成所跡の碑が建てられている。

玉名郡代詰所跡

ここは、江戸時代玉名郡の管轄の任に当たった郡代の 詰所があったところです。
郡代は肥後藩全体で18人から20人。ふだんは郡代局(御郡間)に勤めていて、随時受け持ちの郡を巡視します。長期間の巡視の際は詰所に泊まりますが、かねては熊本府から任地に赴いていました。

郡代は郡方奉行の下で、手永惣庄屋・横目・山支配役な どの役人を指揮して郡全体を治めました。

郡代のしごとは、中心の年貢の収納は惣庄屋・庄屋に任せますが、御郡間の指揮下で蔵米の管理、治水・利水の指導監督、官銭の管理、地侍の軍事教練、藩主や上級役人の郡内巡視の前準備・随行など広い範囲にわたりました。

跡地は、明治以降、玉名郡教育会や郡立図書館などの教育機関が建ち、教育関係者の拠り所となっていました。

簡易教員養成所跡

昭和10年4月 玉名郡公聴会(村上市八会長)により優秀な人材を育成する趣旨から、当時の高瀬繁根木玉名教育会館内修行年限一ヶ年の熊本県教育会玉名郡支会附属教員養成所が開設された。

戦争が熾烈を極めて廃校になるまで九期間699名の卒業生を送り出したがすでに戦没者あり物故者もあり今、生存するもの同志 相諮って青雲の志を抱いて堪えてきた螢雪時代を想起しながらこの碑を建立するものである

平成15年12月吉日

教員養成所 卒業生一同

壽福寺跡の沿革

年月出来事

参考文献・参考情報

  • 壽福寺跡リーフレット(PDF)/玉名市/date:2024-08-03