藤原保昌
藤原保昌について
生年月日:天徳2年(958年)
没年月日:長元9年(1036年)9月)
藤原道長という超有名な人に命じられて、肥後守になる。道長四天王とも称される。若い頃は九州の地方官を歴任して、後半生は近畿の地方官を歴任する。肉食系女子の女流歌人・和泉式部と夫婦になったり、今昔物語・宇治拾遺物語などででも語られるほどの豪傑。祇園祭の保昌山のモチーフにもなっている。
藤原氏のピークの時代に中世の伝説的な武人として紹介されている。坂上田村麻呂・藤原利仁・源頼光。いずれも錚々たるメンバーだ。そんな藤原保昌について紹介しよう。
藤原保昌 は 道長四天王
藤原道長に肥後守を命じられた。弟の保輔が暴れん坊というか強盗を繰り返した結果、988年に獄中死(日本最古の切腹の事例)。この結果なのだろうか、左遷に近い形で998年に日向守になり、更に父親も殺人の罪で島流しになったことで、そのまま1005年には肥後守になる。
とはいえ、前任の肥後守が殺されてしまったので、武勇を兼ね備えた彼に白羽の矢が立ったのは間違いない。道長四天王(源頼信・平維衡・平致頼)の一人としても有名だからね。とゆーか、肥後国って結構、治安悪かったっぽいね。
いずれにしても、道長との相性も良かったためか、九州での実績が評価されたのかはわからないけど、彼は地方官としては最高の摂津守に
藤原保昌 による文化保護
彼の肥後守としての業績というのはよくわからないのだけど、健軍神社や清原神社(北岡神社飛び地)など、保昌によって、修復・創建された神社がある。
地方官として厳しい政治を行いつつ、民心をなだめるために社寺の振興にも努めたのだろうか。
藤原法昌(ほうしょう)という人物もいろんな神社に関わっているようなのだが、時代が違うのだけど、同一視できそうな話もいろいろあるので、本当に謎。
藤原保昌 関連スポット
北岡神社