蘇古鶴神社(菊陽町)
蘇古鶴神社 について
寛永12年(1635年)9月、鉄砲小路(てっぽうこうじ)の守護神として勧請された蘇古鶴神社の旧社地は、堀川の北方の杉山内にありました。明暦元年(1655)12月、新たに神殿を建立し遷宮されたのが現在の宮床です。祭神は、阿蘇一の宮・二の宮で菅原道真 公を合祀しています。
名前の由来は、細川忠利公 が鷹狩りでこの地に来られたとき、鶴が二羽(そこつ鶴)舞い降りてきたので、将来にわたり社号を阿蘇の蘇の字を鶴の上にかぶせて「蘇古鶴宮」と申し伝えたとのことです。この神社本殿前の参道上に、町内唯一の楼門があります。奥行き3.06メートル、間口3.99メートルで、銅板葺きの二層建築です。門内には「奇岩窓神(くしいわまどのかみ)」、「豊岩窓神(とよいわまどのかみ)」の異名同体の二神が祀られています。
蘇古鶴神社 の 由来版
鉄砲小路について
現在は、上・下堀川の二行政区に分かれております が、「鉄砲小路」の古い地名の方が良く知られ、親しまれております。
鉄砲小路は寛永12年(1635)正月、当時の熊本藩主、細川忠利公の命によって新設された地筒(地鉄砲)の村で90名にのぼる地筒集団は他に例を みない最大の規模でもあったのです。
そのねらいは非常時における軍備の強化と、未墾地の開拓による増収、更には一番むずかしいと言われていた浪人対策の一つでもあったのです。
月に5日は城中に出仕し、その他は、武術の練磨と農耕に従事、一旦事あるときは、鉄砲組として主君に奉仕するのが任務だったのです。
寛永14年(1637)の天草の乱(島原の乱)には56人、その他 小倉戦争、慶応4年の鳥羽伏見の戦には101名が参加しております。
組員相互が協力し合い、援け合って諸事に当る旧来の美風は今も尚受け継がれております。
総代1名、小頭6名、組横目7名、地筒76名
屋敷前口15間(約28m)
小頭 20間(約37m)の幅で、中央道路をはさんで北側に住家。南側に 納屋、東西約四に亘って整然と建ち並んだ景観は たしかに異彩そのものだったことでしょう。
蘇古鶴神社 について
この神社は、鉄砲小路の氏神として、氏子の繁栄と武運長久を祈念して、寛永12年9月、細川忠利公の命によって勧請されたものです。
祭神 阿蘇一の宮(健磐竜命)
阿蘇二の宮(比咩大神)
「楼門」は町指定の文化財であり、中には「奇岩窓神」と「豊岩窓神」が祀られ、更に元禄9年(1696)正月、天満宮社殿が併設されました。
蘇古鶴神社の楼門
この蘇古鶴神社は寛永12年(1635)9月、熊本藩主、細川忠利公が、熊本府から東北方の「鬼門」にあたるところから、また、この地に地鉄砲の者を仕立てるために、「鬼門」の厄を払い、併せて、鉄砲町(地鉄砲)の「守護神」として勧請されたものである。
この神社本殿前に、町内で唯一の楼門がある。楼門は、銅板葺き2層建築である。奥行、3.06m・間口、3.99mで、楼門内には門神である「奇岩窓神」・「豊岩窓神」の2神を祀る。
蘇古鶴神社 ギャラリー
蘇古鶴神社 の 御祭神
阿蘇一の宮(健磐竜命)、阿蘇二の宮(比咩大神)
蘇古鶴神社 の 祭事
11月23日
蘇古鶴神社 の 摂社と末社
産さん(産神社)、天満宮
蘇古鶴神社 の 見どころ
蘇古鶴神社 へのアクセス
- 所在地
〒869-1102 熊本県菊池郡菊陽町原水5091 - 駐車場
数台 - 公共交通機関
産交バス:原水新町 原水宮の前 原水駅北口
JR九州:原水駅