肥後の國造

肥後の國造

肥後 の 國造 について

國造(国造)くにのみやつここくぞうこくそうなどと読む。

國造(くにのみやつこ)とは、ヤマト王権に地方豪族が任命された世襲の地方官で、その地域の政治・軍事・祭祀を統治した役職で、王権が豪族連合からより直接的に地方を支配しようとする過程で効果的に利用された。

国造側はより巨大なヤマト王権の権威を背景に、地域を統べる正当性を手に入れ、王権側は巨大な火の国を分割し、地域の支配者を直接管理することができるようになった。

火の国の場合、528年に平定された古代日本の最大の反乱「磐井の乱」で、日和見的だったことがヤマト王権による火の国解体の口実になったみたいだね。とは言いながら、ヤマト王権も国家像については明確ではなかったし、肥後の國造のみなさんも高い独立性を保っていたんです。

本稿では、火の國造、阿蘇国造、天草國造、葦北國造を紹介する。

1. 火國造(ひのくにのみやつこ)

本拠地: 八代・宇土平野を中心とする中部・南部

概要: かつては「火の国」全域に号令をかけた連合の盟主(火君)の直系です。しかし磐井の乱後、その強大さを削ぐための分割統治により、支配領域を平野部に限定されました。 6世紀以降は、かつての「王」としての威光よりも、有明海・八代海の物流管理や、屯倉(直轄地)の運営を担う「実務官僚」としての色彩を強めます。南九州との境界を接する重要拠点の管理者として、律令制が整う7世紀末まで、ヤマト政権の対外戦略を足元で支え続けました。

2. 阿蘇國造(あそのくにのみやつこ)

本拠地: 阿蘇カルデラ一帯

概要: 火の国連合の中でも、荒ぶる火山を鎮める「祭祀者」と、軍馬を育てる「軍事貴族」という二つの顔を持ち、独自の独立性を維持した一族です。 その支配は、多氏(オオ氏)と同族とされる古い血統を背景に、6世紀から律令期を超えて長く続きました。他の國造が行政官として埋没していく中、阿蘇氏は「阿蘇神社の大宮司」として宗教的権威を世襲し続けました。ヤマトの支配を受け入れつつも、聖域の王として君臨し続けた稀有な存在です。

3.葦北國造(あしきたのくにのみやつこ)

本拠地: 葦北郡(水俣・芦北)周辺

概要: 吉備一族の末裔とも、火君の支流とも言われる国境の守護者です。最大の役割は、南の隼人勢力に対する「防衛ライン」の維持と、朝鮮半島へ向かう外交使節の輩出でした。 6世紀中頃には「火葦北阿利斯登(ひのあしきたのありしと)」の名が外交官として海外の記録に残るなど、軍事と外交のスペシャリストとして活躍しました。火の国の一部でありながら、ヤマト直属の「別働隊」のような機能を持ち、戦略的な要衝を任された武門の家柄と言えます。

4. 天草國造(あまくさのくにのみやつこ)

本拠地: 天草諸島および対岸(長島)エリア

概要: 農耕中心のヤマトの論理とは異なる、海を生活の場とする「海人(あま)族」を束ねたリーダーです。 大陸や朝鮮半島へ繋がる東シナ海の航路を熟知しており、6世紀以降、ヤマト王権が対外政策を強化する中で、その航海技術と水軍力が必要とされ任命されました。内陸の政治闘争とは距離を置き、海上交易や物流のプロフェッショナルとして、中央と直接結びつくことで海の支配権を安堵されたと考えられます。

まとめ

ということで、肥後国(火の国)には、主に6世紀(磐井の乱以降)から7世紀末(律令制による郡司制への移行)まで、以下の4つの國造が存在しました。

  1. 火國造(かつての盟主、平野部の行政・物流管理)
  2. 阿蘇國造(祭祀と軍馬、後に阿蘇神社大宮司として存続)
  3. 葦北國造(国境防衛と対外外交)
  4. 天草國造(海上交易と水軍統率)

※行政官としての「國造」は7世紀末で役割を終えますが、その地位や権益は形を変えて在地豪族(郡司や神職)へと引き継がれました。

Q&A(よくある質問)

肥後(熊本)にはどのような国造がいましたか?

主に「火(ひ)國造」「阿蘇(あそ)國造」「葦北(あしきた)國造」「天草(あまくさ)國造」の4つが存在しました。かつて強大だった「火の国」連合は、528年の磐井の乱などを契機にヤマト王権によって分割され、平野部の行政、阿蘇の祭祀、国境防衛、海上交易といった異なる役割(機能)を持つ行政区に再編されました。

国造(くにのみやつこ)とは、簡単に言うとどのような存在ですか? A2:

教科書的には「ヤマト政権の地方行政官」ですが、実態は「かつての地方の王」が「中央の官僚」へと立場を変えた姿です。巨大化するヤマト王権に対し、一族の存続と引き換えに支配権の一部を譲渡し、政治的な契約によってその土地の統治権(および姓)を認められた豪族たちを指します。

火の国の国造たちは、その後どうなりましたか?

6世紀から7世紀末にかけて、ヤマト王権の対外戦略や国内統治の実務(物流管理や軍事)を担い続けました。律令制の導入により「国造」という役職自体は形骸化しますが、その多くは郡司や神職(阿蘇氏など)として在地での有力な地位を維持し、古代から中世へと続く熊本の歴史の基盤となりました。

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