下江津菅原神社 (熊本市)
下江津菅原神社
Shimo Ezu Sugawara Shrine
下江津菅原神社 について
下江津の江津塘から少し木部川方面に脱線したところにご鎮座。程よい広さの境内が住宅地の密集感を緩和してくれる。下記由来にて詳細は説明するが、室町の頃から健軍神社の社領だった下江津は、健軍神社の「今牛名」というのは今牛名主という感じの意味だろうと愚察する。そして、今牛は宮司家の今丑のことではなかろうかと。菅原の道真そのものではなく天神信仰が後の時代に菅原道真 公と結びついて現在に至ると思われる。
下江津菅原神社 ギャラリー
下江津菅原神社 の 歴史・由緒
~下江津菅原神社の由来~
1985年刊行の水郷画図の歴史 熊本大学 森山恒雄教授執筆から
下江津は室町期、健軍神社領の「今牛名」として大体32~33町歩の耕地として存在していた。小字「屋敷園」に開発名主兼健軍社人である「今牛」氏を中心に集落が展開されており、そこには給人坂田四郎六郎が地侍として軍事的保護をなしていた。
そして、それらの開発名主と地侍のもとに、「百姓」=屋敷主が12~13人いて、さらに「百姓」屋敷の中に住居する作人層が4~5人前後生活していた。この「作人」の中から次第に独立して屋敷を有する「百姓」となるものもでてきて【下江津菅原神社】を中心とする農村生活があった。「菅原神社」は下江津以外に重富集落の中心にも祭祀されている。また木部町、田迎町など託麻平野に多く点在している神社であるが、それは農民の人々の「天神信仰」に基づく祭祀である。「天神」はその分布状況、祭祀場所からみて、風雨、火水の支配神、農業神として祭祀された形跡が強くみられる。
その信仰が菅原道真公と結びついて全国的に広がったのが、鎌倉期の中ごろから終わりごろにかけてである。ここでは慈悲救済の神様、後生をも助ける慈悲ある神様として信仰の対象になっていったもので、往生保護という信仰と、天神のもともとは観世音菩薩(観音さん、大慈悲で民衆を救う仏様)であると信ぜられたことと結びついて信仰が盛んになっていったといわれ、鎌倉時代に興った念仏を唱えると救済されるという宗教(浄土真宗、日蓮宗、時宗)とも相呼応して、寺院がなくとも「菅原天神」で神仏信仰を両用させていた。そのため、祭祀の場所も多くの人が参詣しやすい交通の要衝地帯に祭祀されている。
下江津や重富の集落中心の「菅原神社」は、まさに集落の農民の人々が、集落が形成されるにつれて、14世紀の鎌倉期末か南北朝・室町期初め頃に自らの手と力で勧請し祭祀していった神社であり、産土神社として集落の農民の生活の中核的存在となるものであった。
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※名…9~10世紀にかけて律令国家の公地体制が崩れて、地方では未開発地や荒地であった土地を開発して名田として私有支配するようになっていた。「今牛名」の名主は今牛氏で健軍神社の神人であったことから12世紀末に健軍神社に寄進された。寄進は現代でいう寄進とは意味が異なり土地の現実の支配権は寄進しても残るものであった。
下江津菅原神社 の 御祭神
菅原道真 公
下江津菅原神社 へのアクセス
- 所在地
〒862-0960 熊本県熊本市東区下江津6丁目5−7 - 駐車場
なし