大津日吉神社は、大字大津の氏神として地元の方々に大切にされています。同時に、ここはかつての「東嶽城址(舞鶴城とも云う)」でもあります。
神社は上井出(堀川)からつつじの園を登ってゆくと、息切れするくらいの高台にあるので、眺望は抜群に良いですよ。
実はこの場所、大津町のルーツやお城の歴史、そして「古宮(神社が創建された場所)」との間で、ちょっと面白い物語があるんです。調べてわかった歴史を、みなさんと共有できれば幸いです。
【鎌倉〜戦国】大津の始まりと、地名のルーツ「東嶽城」
まずは時間を巻き戻して、鎌倉時代から戦国時代のお話です。
実は、大津町が草創された鎌倉時代から、この地域には氏神として「菅原道真公」を祀る天神様が親しまれていました。これが、のちに重要になってくる「椋天神(むくてんじん)」です。
そして天正の頃。この地域を治めていたのが、東嶽(現在の神社の高台)に城を構えていた大津東嶽城主・大津十郎義廉(おおつじゅうろうよしかね)という武将でした。この大津十郎がお城の周りに集落を築いたことが、現在の「大津町」という地名のルーツになったと伝えられています。大津十郎もまた、この椋天神を深く信仰していたそうです。
大津家は、菊池一族の合志氏の更に連枝とのことです。
山容が鶴が羽を広げたように美しかったことから別名「舞鶴城」とも呼ばれたお城ですが、戦国時代の終わりとともに、一度はその役割を終えることになります。
【江戸時代】日吉神社の勧請と、加藤清正の「落馬対策」
時代は流れて江戸時代(正保元年・1644年)。近江国坂本(滋賀県)の山王総本宮日吉大社から神霊を勧請することになりました。
その神霊をどこに迎えたかというと、当時から仲町(街道沿い)にあった「椋天神」の境内だったのです。
ここで、加藤清正にまつわる面白いお話(肥後神祠正鑑)が残っています。 元々、東を向いていたこの神社ですが、馬に乗ったまま神社の前(官道の宿場町)を通ると、「神威が厳強(ヤバい)」すぎて、みんな必ず落馬しちゃうという事件が多発したそうです。
困った加藤清正(当主の時代背景としての対策)は、官道を南に移し、神前も南向きに変え、正保三年に新しく立派な社殿(上七社)を建てました。
[写真:古い鳥居や石灯籠の風景]
これによって宿場町や旅人の安全は守られ、藩主の参勤交代の祈願所として大いに栄えたのですが……ここで一つのねじれが起きます。 立派な日吉神社の社殿ができたことで、元々そこにあった椋天神が、まるで日吉神社の付属(摂社・末社)のような扱いになってしまったのです。まさに「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」状態ですね。
それ以来、大津郷中の総社として江戸時代を通じて守られ、明治時代には「郷社」に指定されるまでになりました。
【大正〜昭和】大火事、そして「大津発祥の地」への大引っ越し
ところが大正11年(1922年)9月5日の夜、大津の街を大火事が襲います。 この火災によって、仲町にあった日吉神社の見事な御社殿はほとんどが焼失してしまいました。
「さあ、神社をどうやって再建しようか」となったとき、白羽の矢が立ったのが、かつて大津十郎が城を構えていた高台、つまり「十文字山東嶽城址」の現在地だったのです。
大津を見守るのに一番ふさわしい、大津発祥の城跡へ。昭和3年(1928年)、日吉神社は現在の高台へと遷宮され、今の美しい姿を取り戻しました。
【現在】元サヤに戻った?社殿のない古宮「椋天神」
日吉神社が現在の城跡(高台)へ引っ越したことで、元の場所(仲町・日吉神社から旧街道を北へ200メートルほど行った中心地)はどうなったのでしょうか?
実は、飛び地境内摂社「日吉神社古宮 椋天神」として、今もちゃんと残っているんです!
[写真:古宮 椋天神の鬱蒼とした森と鳥居]
母屋(日吉神社)が山の上へ引っ越していったため、元の場所は、椋天神が創建された当時の姿――つまり「社殿を持たず、御神木(元は椋の大樹、現在はナギの大木)に神様が宿る」という、100%ピュアな古代の信仰スタイルに見事元サヤで戻ったわけです。歴史の変遷って本当に面白いですね。
今でも毎年11月15日の祭礼になると、氏子さんたちが集まって境内を清掃し、御神木に七巻きの注連縄を練り上げ、なます等をお供えして一年の稔りに感謝を捧げています。 その日の夜には、新旧の当番組が男児を伴って現在の山の上(日吉神社)に集まり、伝統の「節頭渡し(せっとうわたし)」の神事を行うなど、古宮と本宮の絆は今も深く息づいています。
神社としての信仰の歴史と、お城としての防衛の歴史。 この2つが時を経てガッチリと融合した大津日吉神社。参拝の際は、ぜひ山の上の城跡だけでなく、北へ200メートルの旧街道沿いにある社殿なき古宮「椋天神」にも足を伸ばして、その数奇な「栄枯盛衰」のロマンを感じてみてください。
🗺 大津日吉神社・東嶽城・古宮の歴史年表
最後に、今回のダイナミックな歴史のうねりを年表にまとめました。
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大津日吉神社 は、大字大津の氏神として地元の方々に大切にされています。同時に東嶽城址でもあります。
調べてわかったことをみなさんと共有できれば幸いです。
大津日吉神社 の御由緒
その起源は上大津椋天神(天神森の椋で知られている)だという。現在より北西に日吉神社古宮としていまも
合志七天神の一つと呼ばたりもしていたようです。
天保元年(1644年)に近江国坂本の 日吉神社 を勧請して大字大津の氏神として天神の森に社が建てられたそうです。祭りの奉納相撲が盛大に行われたそうです。この影響のためか各地でも相撲が盛んに行われるようになったそうだ。
「肥後神祠正鑑」(弘化四年著)によると「元々、椋天神に日吉神社の御神霊を移してこの地域の鎮守とした。東に面している馬場下は官道の宿場町のような存在で、この神威がヤバで、乗馬したままこの東に面した官道を通ると必ず落馬しちゃう。
だから、加藤清正は官道を南に移して、正保三年7つの社をこさえました。そのときに、椋天神が日吉神社の付属(摂社・末社)のような存在になってしまいました。」とさ。
※しかし位置関係がわからないのですよね。大津日吉神社の旧宮は現在地よりも北。椋天神があったのは天神の森だとすると、現在地よりも南だから・・・古宮に勘定して、加藤清正が天神の森に移したってこと?
それ以来藩主の崇敬を集め、参勤交代往復の道中安全・武運長久と宿駅道中旅人の安全、大津郷中の五穀豊穣を祈る祈願所・菊池東部地域の総社として崇められてきたようです。
- 宝暦三年(西暦1751年)藩の書達により藩主江戸参勤上下の節海陸安全武運長久の祈祷を命じ、永例となりて明治維新に至る。
- 宝暦七年(西暦1757年)三月、合志郡の大社・五穀成熟祈願所と定められ、正月五月九月には盛大且つ厳かに祭事が行われ、明治維新に至る。
- 明治五年(西暦1872年)郷社に列せられる。
- 明治四十年九月(西暦1907年)神饌幣帛料共進指定社に列す。
大正11年9月5日夜、火災で神殿・幣殿・拝殿・摂社皇大神宮社等の御社殿焼失、(琴平社・参籠舎は火災を免れる)してしまい、新しく社地を十文字山東嶽城祉(舞鶴城とも云う)の現在地に移し、昭和3年4月18日御遷座祭を行ったそうです。











神社は上井出(堀川)からつつじの園を登ってゆくと、息切れするくらいの高台にあるので、眺望は抜群に良かったですよ。