草部吉見神社(高森町)

鳥居の扁額

草部吉見神社

阿蘇神社の主祭神・健磐龍命のオジキであり、義父(嫁のオヤジ)でもある。草部吉見神だと黒龍神と呼ばれているこの神様は、日子八井命といい、神武天皇の長男なのだ。京都から宮崎に上陸した健磐龍命はここで阿蘇都媛と結ばれて、阿蘇谷に進出することになる。

阿蘇から高千穂へ抜ける国道325号線の草部付近に位置する草部吉見神社。社名は「クサカベ」と読み、御祭神は神武天皇の長男、彦八井耳命。高千穂峰からこの地に至り、池を埋めて一夜で宮殿を建てたという神話が地元で語り継がれる。健磐龍命との関わりや、水を自在に操る力を持つ神様としての伝説も伝わる。歴史ある社殿と湧き水が特徴。

草部吉見神社へのアクセス

  • 交通
    産交バス 草部吉見神社前
  • 所在地
    〒869-1811 熊本県阿蘇郡高森町草部2175
  • 駐車場
    あり

草部吉見神社の説明板・ご由緒書

本殿・拝殿

当社は 熊本県阿蘇郡高森町宮原に鎮座し、旧社格は郷社。
主祭神は日子八井命で、ほか健磐龍命、阿蘇都比咩命など十二神を併せまつる。
日子八井命は、神武天皇の六十九年、東征の時、日向高千穂より草部に入られ、しばらく川走の窟(イワヤ)に住まわれたのち、今の草部吉見神社の所にあつた池を干し宮居を定められた、このとき襲ってきた大蛇を斬られ焼かれた、大蛇が血を流しながら逃げて行つた所を血引原(現地引原)、焼かれた所を灰原と言い、今もこの地名が残つている。

創建は阿蘇神社に先立つこと六年と言われる。宮居を定められたその翌年、健磐龍命(神八井命の御子・阿蘇大神とも言う)が下向して来られると迎え、請われて姫を健磐龍命の妃になされた。この姫が阿蘇都比咩命であり、日子八井命は健磐龍命と力を併せ、内には九州鎮護、外には東征という朝廷の国土統一事業の一翼を担われた。
天正年間には戦国大名化した豊後の大友氏が肥後に侵攻し、社領は略奪され権大宮司家は一時祠官家を離れて村民の中に身を潜めた、寛政五年(1793)に祠官家が復興され、文化七年(1810)には祝部(ハフリ)家が再興された。

社殿は、弘治二年(1556)に甲斐左近将親成によって造営され、のち傷みが激しくなつたので明暦二年(1656)に里人らによって現在の社殿に補修された旨、明和九年(1772)の棟札に記録が残る。以後明治二十五年までに十八回修理されたと伝えられる、構造、彫刻など技巧を凝らした造りとなっている。

社地は侵食が進んだ南外輪山の舌状台地の中央に位置し、社殿が鳥居より下にあるいわゆる下り宮と呼ばれる珍しい配置で、鵜戸神社(宮崎県日南市)
貫前神社(群馬県富岡市)とともに日本三大下り宮の一つに数えられている。
社殿下の吉ノ池(八功徳水とも言う)と呼ばれる湧水池があり、境内地には年経た杉が繁茂し、参拝する者を厳粛な気分にさせる雰囲気が漂っている。

社殿の東方300mばかりのところに、石の玉垣で囲まれた日子八井命の御神陵(ミササキ)がある(陵墓参考地)。
摂社として、草部吉見神社から1・5Kmばかり西の菅迫(スゲノサコ)に日子八井命の御子天彦命と天彦命の妃天比咩命をまつる三郎神社がある。
例大祭は、七月三十一日と十月十七日の夏、秋2回で、七月三十一には地引原の御仮屋まで御輿の御幸があるほか、社殿前の神楽殿で岩戸系の神楽三十三座が奉納される。十月十七日には社殿横の広場で大神御手相撲が奉納される。

御祭神とご利益

なんの神様

一の宮 日子八井命 二の宮 比咩御子命
三の宮 天彦命 四の宮 天比咩命
五の宮 阿蘇都彦命 六の宮 阿蘇都比咩命
七の宮 新彦命 八の宮 彌比咩命
九の宮 速瓶玉命 十の宮 若彦命
十一の宮 新比咩命 十二の宮 彦御子命

祭事

どんなお祭りがあるのかな?

夏と秋には例大祭が行われ、7月31日の「夏季大祭」では御輿の御幸、10月17日の「秋季大祭」では大神御手相撲が奉納される。両日とも社殿前の神楽殿では、高森町無形文化財に指定されている岩戸系の神楽である「草部吉見神楽」三十三座が奉納される。

御朱印

御朱印の有無・対応時間など

拝殿に印刷されたものがある

草部吉見神社の見どころ

神社に参拝したら是非チェックしてほしいポイント

下り参道

そもそも阿蘇の外輪山の大自然の中にある神社というのが見どころの全てだと思うのだが、日本三大下り宮であることを実感するこの参道は味わって欲しい。

下り宮とは:神社の拝殿や本殿が鳥居よりも低い位置にある神社のことで、全国的に見ても珍しい形態の神社。

参道が下り階段の神社は結構あるけど、鳥居より下にあるってのがポイントなので、覚えておこう。

草部吉見神社ギャラリー

神社の風景をお届け

神社の沿革

年月出来事

参考文献・参考情報