歴史好きにとって幕末という時代は、英雄豪傑(幕末の志士)が様々な思いで、日本という国のあり方を描いた時代だと思います。実力主義の戦国時代とは違った魅力がある時代ですね。私も大好きです。

平均寿命で比較するとわかりませんけど、やっぱり若い人たちが時代を切り開いている様子にいろんな形で触れていると、ムネアツです。

熊本にも一人の志士がいました。それが、宮部鼎蔵さんですね。でも彼のことで知っているのは、攘夷活動の結果、池田屋事件で鹿児島の攘夷派とともに命を散らしてしまった。ということくらい。

今回は、そんな宮部鼎蔵についてネットレベルでいろいろ調べたことを共有するので、地元の大先輩について少しだけ詳しくなりましょう。

宮部鼎蔵の生い立ち

熊本市中央区の中央高校・壺渓塾のそばに彼の旧居跡の顕彰碑があります。ご実家は現御船町の七滝村。瀧を御神体にした七滝神社あるところですね。(行ってみたい)やっぱりそれなりに身分の高い藩士だったのかなぁと。お医者さんの家系で、そのルーツは藩士。宮部家は滋賀県出身という説があるので、加藤清正公についてきた家柄なのかな?ご存じの方はぜひコメント欄で!

幼少期から医学を学びましたが、18歳の頃から叔父・宮部増美の養子となり、山鹿流軍学(兵学)を学び始めます。21歳で正式に養子となり、叔父から兵学を受け継ぎました。

30歳の時、熊本藩に召し出されて軍学師範となり、内坪井(中央高校あたり)に住みました。8年間にわたり軍学師範を務め、藩士の教育や藩政に貢献しました。また、林桜園に国学も学び、学識を深めました。横井小楠とはご近所さんで面識があったのやも知れぬ。

あ、「坪井」という地名の由来は、加藤清正が城下町を築いた際、この地域にあった井戸が大きく壺の形に似ていたことから「壷井(つぼい)」と名付けられたのが始まりらしいね。のちに「坪井」という表記に変わりました。この井戸は現在も報恩寺の境内にあり、「雷封じの井戸」とも呼ばれてるらしい。

吉田松陰との交流と尊王攘夷運動

1850年(嘉永3年)、長州藩の吉田松陰が熊本を訪れ、鼎蔵と出会います。両者は意気投合し、翌年には江戸に上り、共に東北諸藩を遊歴して各地の志士と交流を深めました。こうした経験から、鼎蔵は尊王攘夷の思想を強く抱くようになる。東北って会津若松の松平家もだけど、勤王であり佐幕であるエリアだったのかな?奥羽列藩同盟のイメージだけで語っています。(妄想)

肥後勤王党と京都での活動

文久元年(1861年)、肥後勤王党に参加し、尊王攘夷運動の中心人物となります。文久2年(1862年)には清河八郎も鼎蔵を訪ねて熊本に来訪。翌年、熊本藩主・細川護久の弟・長岡護美に伴い上京し、三条実美の下で結成された親兵隊の総監に任命されました。

八月十八日の政変と長州への落ち延び

1863年(文久3年)、「八月十八日の政変」で尊王攘夷派が京都から追放されると、鼎蔵も三条実美ら七卿とともに長州に落ち延びます。肥後熊本藩は公武合体政策などへ藩論が傾き、さぞかし攘夷派閥は肩身が狭かったと思うんですね。鼎蔵は、その後も尊攘派の勢力回復を目指し、筑後の真木和泉らと忠勇隊を組織して再び京都に潜伏しました。

池田屋事件と最期

1864年(元治元年)6月5日、京都三条小橋の池田屋で尊攘派の同志と会合中、新選組の急襲を受けます。鼎蔵は奮戦しましたが、形勢不利と見て自刃し、45年の生涯を閉じました(池田屋事件)。鼎蔵の死からわずか5年後、明治維新が成し遂げられました。

顕彰と墓所

明治24年(1891年)、その功績を讃えられて従四位を贈られました。墓所は京都霊山護国神社、熊本市小峰墓地、桜山神社などにあります。

まとめ

宮部鼎蔵は肥後勤王党として活動して、命を散らしてしまったけど、倒幕という目的は後人が達成した。しかし、勤王党の本願で親政は達成できなかったのかなと思う。(あぁ自分は勤王党ってのは親政が目的だったと思うんですよね)

本人がどう思っているかは、私達には理解が及ばないのだけれども、なんとなく薩長が恣にふるまった結果、ある一定の時代までは成長し、そして大きな戦争を経験して現在に至る。

今のこの日本をどう思っているのか、ぜひ、ご意見をいただいてみたいものです。

宮部鼎蔵の年表

西暦(元号)事績
1820年(文政3年)肥後国益城郡七滝村(現在の熊本県上益城郡御船町)に生まれる。
1837年(天保8年)叔父・宮部増美の養子となり、山鹿流軍学を学び始める。
1841年(天保12年)21歳で正式に養子となり、家督を継ぎ軍学を受け継ぐ。
1850年(嘉永3年)長州藩の吉田松陰が熊本を訪れ、鼎蔵と出会う。
1851年(嘉永4年)吉田松陰と共に江戸に上り、東北諸藩を遊歴。
1859年(安政6年)熊本藩に召し出され軍学師範となる。内坪井に居住。
1861年(文久元年)肥後勤王党に参加し、尊王攘夷運動の中心となる。
1862年(文久2年)清河八郎が鼎蔵を訪ねて熊本に来訪。
1863年(文久3年)熊本藩主・細川護久の弟・長岡護美に伴い上京。三条実美の下で結成された親兵隊総監に任命される。
1863年(文久3年)「八月十八日の政変」で尊王攘夷派が京都から追放され、七卿とともに長州に落ち延びる。
1864年(元治元年)筑後の真木和泉らと忠勇隊を組織し、再び京都に潜伏。
1864年(元治元年)6月5日、京都三条小橋の池田屋で新選組の急襲を受け、自刃(享年45歳)。
1891年(明治24年)その功績を讃えられて従四位を贈られる。
現在墓所は京都霊山護国神社、熊本市小峰墓地、桜山神社などに存在。

参照元

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